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【阪神】藤浪、自己最速160キロ更新ボディー完成!過去最高の体重97キロ

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↑有馬記念の予想ではサトノダイヤモンドを本命に指名した藤浪

 阪神の藤浪晋太郎投手(22)は24日、12月初旬から都内で行ってきたレンジャーズ・ダルビッシュ有投手(30)との合同トレの成果で過去最高体重の97キロになったことが分かった。この日、都内のイベントに参加した藤浪は「最初が91キロだったので、体重は6キロくらい増えました」と、筋肉の鎧(よろい)でダル化に成功しつつあることを明かした。

 藤浪は、これまで体重に比例して球速が上がってきた。1年目は86キロで155キロだったが、約10キロ増えた今季は自己最速の160キロをマークした。1シーズンを戦い12月初旬に体重は91キロにまで落ちていたが、ダル流トレで、わずか1か月で6キロ増。MAXを更新するための3ケタ体重も見えてきた。

 トレーニング以外でも、ダルビッシュとキャッチボールも行い、野球の技術、さらに栄養、食事面の指導も受けた。「知識量がすごいです。何を聞いても返ってくるし、すごく勉強されているのが分かりました」と、あらゆる面で感化された様子。今オフは、ヤンキース・田中からも助言を受けるなど充実の日々を送っている。今季は7勝11敗、防御率3・25と大きく期待を裏切ったが、巻き返しに向け着実にパワーアップしている。(酒谷 裕)

 ◆「着外あり得ない」有馬はダイヤ本命

 最近は競馬にも興味を持つ藤浪は、有馬記念の本命に(11)サトノダイヤモンドを指名。「何があってもどんな状況でもサトノダイヤモンドはブレない。着外はあり得ないかなと思います」と、今年の菊花賞馬に全幅の信頼を寄せた。馬券は(11)の3連単1頭軸マルチで相手は(1)(2)(6)(8)(16)。今年の漢字の「金」つながりで(2)ゴールドアクター、クリスマス決戦で、聖母マリアから(16)マリアライトを選ぶなど、世相馬券も意識したチョイスになった。

【巨人】沢村、年末年始も猛練習!守護神死守へハワイで野球漬け

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↑自主トレ先のハワイに出発した沢村(左)と鍵谷

 巨人の沢村拓一投手(28)が24日、成田空港から自主トレ先の米ハワイへ出発した。中大の後輩、日本ハムの鍵谷陽平投手(26)と約1か月間、汗を流す予定。守護神死守のため、年末年始も猛練習する考えを示した。

 サンタ姿の店員や、華やかなクリスマスツリーが並ぶ出発ロビーで、沢村が熱い思いを口にした。「遊びにいくわけじゃない。トレーニングをしにいくので。大みそかも元日も? 関係ない。結果を残せる準備をしたいです」。バカンスムードを一切、封印した。

 抑え2年目の今季は63登板で37セーブ。開幕前に発症した右足足底(そくてい)腱(けん)膜断裂と闘いながら、セーブ王を獲得した。患部は完治。ハワイでランニングも追い込める状態だ。今オフ、抑え候補として最速164キロ右腕のカミネロが加入。マシソンを含めた守護神争いは激戦だが「素晴らしい選手を補強していますが、もっともっと上を目指さないといけない」と闘志を燃やした。

 クリスマスイブは、出発前に都内でトレーニングを行った。来季は巨人史上初となる3年連続30セーブ、通算100セーブも視界に入る。「数字は気にしない。ウェート、走ること、体幹、投げること。全てにおいてレベルアップできるようにしっかり準備したい。体を作って競争を勝ち抜くことだけです」。ハワイで野球漬けの生活を送る決意を口にした。(片岡 優帆)

【巨人】長野、中国語覚える!陽&リャオとコミュニケーション

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↑一日店長として店舗に立ち、入り口で名刺を配る長野

 外国出身選手とのコミュニケーションは任せて下さい―。巨人・長野久義外野手(32)は24日、台湾出身の陽岱鋼外野手(29)と廖任磊(リャオ・レンレイ)投手(23)=台湾・開南大卒=の入団に備え、中国語を学ぶ考えを明かした。これまでも英語、スペイン語を駆使して、助っ人選手とコミュニケーションを取ってきた選手会長。陽とは同じ外野を守るとあって、最強コンビ結成に向け、4か国語目をマスターする。

 長野の目は真剣だった。台湾出身とはいえ、陽もリャオも日本語は堪能。だが、陽とは中堅と右翼で出場する可能性が大きく、綿密な意思疎通が重要と感じている。最強コンビ結成のために、より相手の懐に入ってコミュニケーションを取っていくべく「中国語を勉強したいですね」と意欲を示した。

 自信もある。社会人・ホンダ時代の07年には、台湾で行われたIBAF・W杯に日本代表として出場するなど、過去、陽の故郷に「4、5回行ったことある」という。独特の発音で日本人には難しいとされる中国語だが「少しできます。本当ですよ。中国人に『上手』と言われたくらい発音がいいですから」と胸を張る。

 これまでも助っ人外国人との懸け橋になって来た。中学時代には英会話教室に通っていただけに、英語は「普通の会話くらいならできると思います」と言うほど。遠征時には積極的に声をかけて食事に誘い、お酒を交えながら交流を深めてきた。キューバ出身でスペイン語しか話すことができなかったアンダーソンには、スペイン語で話しかけた。中国語も習得すれば実に4か国語を話すことになる。新加入選手にもなじみやすい環境作りに努める意向だ。

 さらに守護神候補のアルキメデス・カミネロ投手(29)=マリナーズ=の情報も、本拠地・シアトルに住む知人から収集済み。164キロ右腕との対面を「めちゃくちゃいいやつらしいですよ。楽しみですね」と心待ちにしている。

 この日はアンバサダー契約を結ぶミズノ社の、東京・神田小川町にある直営ショップ「エスポートミズノ」で一日店長に就任。「人生初」という名刺を200枚配るなどして、来店者と交流した。来年1月は坂本、村田らとグアムで自主トレ予定だ。「自分で(定位置を)つかみ取るしかないので、しっかりキャンプで結果を残していきたい」。3年ぶりのVへ、長野のグラウンド内外での活躍が鍵となる。(安藤 宏太)

 ◆G長野の気配り列伝

 ▽英語で励ましメール ボウカーとは普段から通訳を介さず、積極的に英語で会話。13年に故障で戦線離脱した際には、英語で励ましのメールを送った。

 ▽プレゼント 14年のサッカーW杯開催時には、チーム一のサッカー好きであるロペス(現DeNA)に愛称である「エルチャモ(スペイン語でやんちゃ坊主の意味)」のネームが入った日本代表ユニホームを、サプライズで用意した。

 ▽日本語講師 14年に入団したアンダーソンはスペイン語しか話すことができなかったため「ありがとう」や「おなかがすいた」といった日本語を教え、チームになじめるよう努めた。

<独占告白>元巨人の代走スペシャリスト、鈴木尚広の引退真実

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元巨人の代走のスペシャリスト、鈴木尚広氏(38)と年の瀬に会った。クライマックスシリーズの横浜DeNA戦で、まさかの牽制死、そしてあまりに突然の引退発表。“神の足“と呼ばれた男の引き際に何があったのか。

 そろそろ野球をやりたくなってきたのでは? そう問いかけると、鈴木氏は「特にないですね」と笑う。
 現役時代は、午前5時に起床、東京ドームに試合開始7時間も前に到着して入念な準備をしてきた。ストイックを絵に描いたような男は、引退してから特段、運動はしていないという。

「動いていないので、お腹も減りませんし、食べたいという気も起きません。一日一食という生活をしていたら、代謝がいいもので何キロも痩せてしまいました」
 
 そう言われると心なしか頬がこけて見える。

 38歳にして塁間の秒数はアップ、年齢と共に足腰に出てもおかしくなかったはずの怪我もなかった。高橋監督、フロント共に来季の戦力として計算していた。なのに、なぜ辞めるのか。引退発表後、会う人、会う人に「まだできるのに」と惜しまれる。野球の楽しさも厳しさも、そして基本技術さえもマンツーマンで徹底して教えこんでくれ、プロに進むまでの道筋を作ってくれた福島で焼肉店を営む父からは、「あと1年だけやってくれ」と、翻意を促されたが「無理だ」と答えた。

「(まだできるのにという声を)多く耳にします、でも、それは僕が決めることです。いつまでも野球選手ではいられません。第二の人生を一から作りあげ、視野を広げて、自分が成長しなければならないと考えました。野球選手としての成長は、もう十分。チームでの役目を終えたんです」

 引退会見で、鈴木氏は「体力、技術は上がっていますが、心が離れていきました。僕の仕事は一発勝負。心、技、体のどれかひとつが欠ければ、もう勝負はできません」と語った。

 その「心が離れた」という言葉の意味がよくわからなかった。
 ストレートに聞いてみた。
「心が離れた」とは何をさすのか。そしてそれはナゼおきたのかと。

「どうなんでしょうか。毎年、自分のやるべきことをやりました。(試合に)出る出ないはわかりませんが、悔いはなく、出し尽くしました。燃え尽きたわけではありませんが、自分の勝負に対するものにかげりがみえたんです。全部を出し切っているなかで、貪欲さがなくなってきたのかもしれません。元々貪欲さはないんですが(笑)。心ここにあらずっというのがあったんです。あんな気持ちで、よく成功していたなあと」

 代走という1試合に一度だけ巡ってくる勝負に向けて、鈴木氏が全身全霊をかける丹念な準備は有名だ。
 ナイターゲームだと、午前11時には東京ドームに入り、足湯につかり体を温め、入念なストレッチ、体幹トレーニングでチームの試合前練習開始前に2時間も準備を行う。試合中には、ゲーム展開を読みながら、ドームのロッカー裏に作られた専用の人工芝レーンを使って暖気運転を終えておく。そしてゲームが佳境に入ると、相手ベンチとバッテリーに心理的なプレッシャーをかけるため、トレードマークとなっていたオレンジの走塁用グローブをつけて、わざとベンチに姿を見せる。

「自分が監督になったつもりで、チームの流れ、僕自身の流れを気にしながら、どこで使うんだ? とゲームの流れを読むのです。ここで来るんじゃないか? と予測を立てていくわけです。監督から“行け”と言われたときに、いつでも行けるための準備です。原監督、高橋監督とも、そういう野球観を摺り合わせるような話をしたことは一度もありませんが、感じるんです。必然、監督の傾向が出てきます。僕の中では、自分の考えと監督の勝負が、ズレるほうが少なかった。え? ここで? というズレは、あまりありませんでした」

そして声がかかるとベースタッチと同時にスイッチが入り無の境地になるという。

「下調べと準備。自分のやるべきことをやってから、そこに行き着くからプレッシャーは感じず、むしろ何も考えません。ベースにいく前にすべてを整えていくんです。だから冷静に対応ができました。あそこで何かを考えるようになると逆にスタートがきれなくなります。ベース上では、何食わぬ顔をするんです。弱気を表情に出さないんです」
 
 相手ベンチからすれば憎いほどのポーカーフェイスも考え尽くされたものだった。

「例えば陸上のボルトを見ていると顔の筋肉が緩んでいます。緊張と弛緩のバランスがいいんです。力みが消えパフォーマンスがアップします。それに何食わぬ顔でリラックスしていれば、“こんな場面で緊張しない奴って、どんな奴?”とバッテリーは考えるでしょう? 考えさせる、惑わせることが大切なんです」

 ベース上では、時折、一塁手が話しかけてくるが、「返事をしているが心そこにあらず。人と話している感覚もなかった」。それほど集中していた。いわゆるアスリートにおけるゾーンの状態である。
 それでも、その境地にたどり着くまでは「10年かかった」という。
「若い頃は、ファンの声援も雑音に聞こえてしまうくらいに視野も狭く、地に足がつかず聴覚の感覚も失われていました。緊張で自分の心臓の音が耳元で聞こえるくらいでした」

 盗塁技術も磨きあげた。
 盗塁には、勝負のポイントが3つあるという。牽制やクイックでなんとか阻止しようとするピッチャー、スローイングで刺そうとするキャッチャー、そしてタッチプレーを試みる野手との接点だ。

「盗塁に対しては、ピッチャーが投げる、キャッチャーが捕って投げる、野手が捕ってタッチするという3つの行程があります。そのどこかで相手がミスをしてくれれば盗塁は成功します。スタートがよければ、キャッチャーは焦るでしょう。つまり相手にいろんなことを考えさせて、そのひとつひとつを崩していく。そこにおもしろさがありました。足が速いだけじゃむずかしいんです」

 VTRを何度もチェックして投手の牽制の癖を盗んで走るタイプではない。
「そこは判断材料にはしません。癖がわかるピッチャーがいればいいが、わからないピッチャーもいて、癖に偏りすぎると、力は落ちてきます」。
 鈴木氏が、現役時代に尊敬して、その技術を目で盗んでいたという元阪神の赤星憲広は、感性でタイミングをつかむと言っていた。

「スタメン出場ができればリズムがあり、牽制がくるかこないかは、五感でわかるんです。スタメンで出るときは、それは感じていました。でも、それは反復があるからこそわかるもので、代走勝負となるとわからないんです。そこをあわせるのが難しい」

 鈴木氏のスライディングも独特だった。スピードを落とさず至近距離から、まるでキックを出すように突っ込む超高速スライディング。

「体が近くまできて足をキックするように出すので野手は怖いんです。僕からすれば怪我の防止も考えたスライディングでしたが、毎回、この形で滑りこんで、相手に“鈴木はクロスプレーになると怖い”という印象を植え付けるんです。これだけでひとつ優位に立てます」

 そこまでの万全の準備をしても出番の回ってこない試合もある。
 気が遠くなるようなルーティンを鈴木氏は、代走のスペシャリストとしての地位を築いた2011年あたりから6年間も続けてきた。

だが、徐々に体力、技術、メンタルのバランスが崩れ始めたという。
 足にはスランプがない、が球界の常識のように言われている。だが鈴木氏は、その考え方を否定した。

「感覚的なスランプはたくさんあるんです。考えすぎて無になれないんです。そこに陥ったら、なかなか動けず、行けなくなる。その中で、盗塁という反応は必ず相手が先でバッテリーに主導権を持たれている状況で勝負をしなければならなかった。だから実際、228個の盗塁のうち、納得のいく盗塁は、ほとんどなかったんです。合計10個もないんじゃないですかねえ」
 
 バランスの崩壊が顕著に出たのが、あの横浜DeNAとのクライマックスシリーズでのまさかの牽制死の場面だった。3-3の同点で迎えた9回、足を痛めていた村田修一が内野安打で出塁した。無死一塁で、4番の阿部慎之介を迎えたサヨナラのチャンスに満を持して代走・鈴木氏が告げられた。

「最初から(田中と)合ってないなあという感じがあったんです。“今日は自分にとって逆の方にいっているなあ”という感じがしていたんです。それと田中選手が、あそこで投げるという予測がなかった。三上の続投か、山崎康の投入か、そういう読みをしていたので、僕にとってちょっと予想外で、面食らい出遅れた感じがあったんです。いつもと違う感じですね」
 
 試合の流れを見て予測する“読み”が狂い、五感で感じる無の境地を保てない。
 ボールカウント1-0だった。横浜DeNAの左腕・田中が、いつもより長くボールを持っていた気がしたが、鈴木氏は牽制で逆をつかれた。「スタートをきろうとしたんです。あそこは勝負する場面でした」
 頭からベースに戻ったが間にあわずサヨナラのチャンスは消えた。延長で巨人は敗れ、結果的にこれが鈴木氏の現役最後のプレーとなった。

「(失敗した)悔しいという感情よりも、チームへの責任感を感じました。悔しいよりも申し訳ない、そういう気持ちでした」

 鈴木氏は、その感情を押し殺したままベンチで走塁グローブを外した。
「心がそこになかったことが招いた必然のアウトでした。(引退の)決め手になったわけではありませんが、やっぱりこうなるなあっていうのがわかりました」

 あの試合は、引退の引き金ではなく、心が離れたことを最終確認するシーンになった。

「(引退を決めたのは)突然じゃないんです。1年間考えながらやってきて、少しづつ(立場が)変化しているなあ、流れてきているなと肌で感じてきた。今までは、わがままな野球ができていました。自分のことだけを考えておけばいい。でも20年の月日と共に立ち位置が変化していました。
 これまでインプットしてきたものをアウトプットして人に伝えるという役割もありました。自分のことよりもチームのことを考えるようになったんです。この選手はなんとかならないか、アドバイスしようかと、広い視野の中で試合を見ていました。あてにされるのはうれしいが、そこじゃないだろうとも、いつも思っていました」

 そして、こうも続けた。
「僕の代走のポジションは確立されていました。誰にも負けるつもりはありません。でも僕が出るのはチームが苦しい状況ということ。僕が目立つよりもレギュラーが目立ったほうがいいんです。僕がクローズアップされるようでは、チーム力がないんです」
 あの一塁ベース上で無になれない理由はこんなところにも転がっていたのかもしれない。 

 1996年に福島の相馬高校からドラフト4位で入団後、怪我に泣かされ、スイッチに挑戦し外野にも転向し何度も挫折を乗り超えながら、ただ一途にストイックな野球道を追求し続けてきた。
 その鈴木氏が、自分のことよりもチームのことを考えねばならなくなったとき、スペシャリストとして持ち続けなければならなかった研ぎ澄まされた感性が鈍り、皮肉にも、彼が持つプロとしての哲学を貫けなくなるという矛盾を感じ取ったのである。

「私がこだわったプロとして生き様。それができなくなったのです」
 
 究極のプロ道を究めた鈴木氏らしいといえばらしい決断だが、歴代ナンバーワンの盗塁成功確率.829を誇る個性あふれる足のスペシャリストが、球界からいなくなるのは、あまりに寂しい。

 あなたのような代走の専門家が、また出てきますかね?
「僕みたいなスペシャリストは、もう難しいかもしれませんが、出てきて欲しいですね」
 鈴木氏は、今、後継者を育てるための一歩を静かに踏み出している。

来年になりますとブログ開始してから約1年

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来年になりますと自分がブログを開始してから約1年が経ちます

皆さんのコメントやナイスで今までブログを続けていくことが出来ました

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最初はどのようなブログを書けば良いのか?わかりませんでしたが皆さんのブログを見ていると自分の趣味や今、ハマっているブーム[マイブーム]などを書いていました。

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自分も趣味やマイブームをコツコツと書き続けていけば皆さんがナイスやコメントなどをくださいました。

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自分の夢をバカみたいに書いていましたがそれはそれで良いんじゃないかな?って自分で思っています

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自分はこれからもブログを止めるつもりは無いんでこれからもよろしく

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今日は訪問者回数が12000人丁度の記念すべき日になりました。ありがとう???

楽天・藤田が貫く“ハマの番長の流儀”

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↑三井ゴールデン・グラブ賞を受賞した楽天・藤田

 球界には「走・攻・守」各分野で「プロフェッショナル」がいる。楽天の藤田一也内野手(34)は言わずもがな、守備のスペシャリストに当てはまる。今季はパ・リーグ二塁手部門で2年ぶり3度目のゴールデン・グラブ賞に輝いた。

 野球記者歴2年目の私も試合中の「うわ~!マジか。それ、捕っちゃうんだ!」と思わず記者席で叫んでしまったことが度々あった(先輩記者からの視線が痛かった)。

 そんな球界屈指の守備職人の、グラウンド外での“ファインプレー”に目を向けたい。来季プロ13年目を迎えるベテランはこれまでファンと接するにあたり、胸にとどめてきた信念があるという。

 「俺らが野球をやれているのはファンのおかげ。ファンを大事にしろ」

 今季限りで25年の現役生活に幕を下ろした「ハマの番長」こと元DeNAの三浦大輔氏(42)から贈られた言葉だ。

 2005年から、楽天に移籍した12年シーズンの途中まで、ともにプレーした大先輩の言葉を大事にしている。「大輔さんは車に乗っている状態でファンにサインは絶対しない。頼まれたら、いつも車から降りてサインしていた。そういうところを見習ってきた。できる時は時間の許す限り、ファンサービスに応じる。僕も現役でいる限りはそういう人でありたい」

 今季も本拠地・コボスタのファンのみならず、遠征先の球場や宿舎でも、余裕があればサインや記念撮影に応じる場面を何度も目にした。一方で、残念ながらファンサービスに積極的でない選手がいたのも事実。年を重ねるごとにファンと距離を置くベテラン選手もいるが、藤田はこれからも“番長流”の姿勢を崩すことはない。

 藤田には大きな夢がある。42歳まで現役を続けた三浦を超えて「1年でも長くプレーをすること」だ。「これまでも、大輔さんに会う度に毎回、『僕は大輔さんよりも1年でも長くやりますんで』と言ってきた」。その度に番長からは「頑張れよ」と勇気づけられてきた。

 三浦氏は引退会見でファンについて「三浦大輔にパワーを与えてくれた存在。勝てない時はグラウンドに物が投げ入れられたり、つらい時期もあったけど、ほとんどのファンの方は一緒に苦しんだり、喜んでくれたりして。一緒に戦ってきたチームメートだと思います」と語った。

 藤田もファンとの間にこんな熱い関係を築いていきたいと思っているのだろう。35歳になる来シーズンも、楽天ファンの声援で背番号6の後押しをして欲しい。(記者コラム・長井 毅)

【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(1)「あそこはヨメが決めるんだろう」

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↑86年11月6日付本紙

 一つのトレードが、日本中を騒がせた。今から30年前の1986年オフ。2年連続3冠王に輝いたロッテ・落合博満に移籍騒動が勃発した。目まぐるしく動く事態の中で何が起きていたのか。落合家のラスボス的存在である信子夫人、逆転獲得のキーマンである中日の星野仙一監督(当時)=現・楽天球団副会長=らが、知られざる舞台裏を明かす。(特別取材班)

 事の発端は「神さま、仏さま」と称された男の爆弾発言だった。

 86年11月4日。福岡市内で行われた「落合選手を励ます会」の席上だった。そのシーズン限りでロッテ監督を退いた稲尾和久が、前年(85年)オフに巨人からトレードを持ちかけられたことを暴露したのだ。それは「(交換要員として)原辰徳以外なら誰でも出すから、落合を欲しい」という衝撃的なものだった。

 落合自身も「稲尾さんがいないのならロッテにいる必要がない。来年、どこのチームにいるかは契約が済まないと分からない」とコメント。翌5日も日米野球のために訪れた平和台球場で「個人事業主として、一番高く評価してくれるところと契約したい」などと“オレ流節”を連発した。

 ウマが合う稲尾の解任に不信感を募らせるなど、球団との対立は決定的になっていた。そこにきて、事実上の移籍志願発言。1年前に消えた幻のトレードが一気に現実味を帯びてきた。

 ロッテ側は本人と急きょ会談。「放言についてのペナルティーは科さない。トレードもない」とし、沈静化を図った。もちろん、そんなことでは収まるわけがない。「トレードありき」の流れは加速した。移籍先としてささやかれたのは、当然ながら巨人である。

 稲尾発言について王貞治監督は「『原以外なら誰でも』なんてバカな交渉をするはずがない」と否定。ただ「去年、落合のトレード話がなかった、とは言わない」と誠意を持って答えたことが火に油を注いだ。

 ロッテの有藤監督も「一般論として」と前起きしながら「巨人から申し込まれたら、それ相応の検討はします」と明言。こうなってしまうと、報道の先走りは止まらない。焦点は交換要員へ。最初にウワサされたのは中畑清だった。

 渦中にテレビ番組で共演した際のこと。落合とツーショットになったキヨシは真顔で「ウワー、オマエかよ。やめろよ、本当にやめろってば」と絶叫。司会の徳光和夫は「落合さんの足音が巨人、巨人と言っているように聞こえます」と無邪気にあおっていた。

 しかし、そんな世間とは真逆のことが落合家では起きていたのだ。信子夫人が笑いながら明かした。「中日の星野さんからこっそりお会いしたいと。『ぜひ奥様も』ということで。みんな『あそこはヨメが決めるんだろう』って感じだったから」―。=敬称略=

 ◆落合 博満(おちあい・ひろみつ)1953年12月9日、秋田県生まれ。63歳。秋田工―東洋大中退。東芝府中を経て78年ドラフト3位でロッテ入団。82、85、86年に3冠王に輝く。3冠王3度はNPB史上唯一。87年、中日移籍。93年オフにFAで巨人入り、97年から日本ハムでプレー。98年限りで引退。82、85年パMVP。04年から中日監督に就任し、リーグ優勝4度。07年はリーグ2位からCSを勝ち抜き、53年ぶりの日本一に導き、正力賞受賞。11年にリーグ連覇を達成し退任。同年野球殿堂入り。13年秋から中日GM。通算2236試合に出場し、打率3割1分1厘、510本塁打、1564打点。

【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(4)「ロッテは篠塚を欲しかった」

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↑86年11月、秋季キャンプでナインにゲキを飛ばす中日・星野新監督

 86年オフ。既定路線かと思われた落合博満の巨人移籍は、なぜ「凍結」となったのか。星野仙一は交換要員で折り合わなかったと見ている。

 「もう30年もたつんだから時効かな。ロッテは篠塚を欲しかった。でも巨人としては出せないと。それから(候補を)いろいろ出したけど、ロッテから見ればいい名前がない。それでご破算となった」

 前年85年オフ。巨人では定岡正二が近鉄へのトレードを拒否し引退している。交換要員の選定には慎重にならざるを得ない状況があった。「巨人、獲得凍結」が報じられる直前、ロッテ監督・有藤の「江川と槙原、桑田をくれないかな」という現実味のない発言は、交渉が難航していることの裏返しだったかもしれない。

 それでも最後には巨人になるのではと、星野は考えていた。「巨人の正力さんとロッテの重光さんがゴルフ場でグリーン会談とかやってたから。オーナー同士が交渉しているということは、結局はどちらかが折れるのかなあと」

 中日の監督に就任したばかりの星野は、危機感を募らせた。「あの時の巨人は辰徳がいてクロマティ、中畑がいた。篠塚に吉村、駒田もいる。そこで落合が4番に座ったら勝てるか? 投手もそろっているし、V9時代より上だよ」

 この頃、星野は根本陸夫と会っている。根本は実質的なGMとして西武の黄金時代を支えていた。「落合は獲らないんですかと聞いたら『獲らないよ』と。根本さんが獲らないと困ります。セ・リーグが面白くなくなっちゃうと言ったんだけど…」

 他チームが獲らないなら自分で獲るしかない。星野は腹を決め、オーナーである中日新聞社社長・加藤巳一郎の説得に乗り出す。「オーナーはあんまり野球には詳しくないんだけど、『読売』というものにはとても敏感だった」

 それで星野は「巨人」とか「ジャイアンツ」という言い方をせずに、オーナーにはあえて「読売」と言うようにしていたという。

 「オレは『読売に落合が入ると、こういう打線になるんですよ。これでは全く勝てませんよ。2、3位争いですよ』と数字を出しながら言ったんだ」

 星野は加藤にたたみかけた。「向こうが指名してくる選手を出しましょう。落合はそれくらい太っ腹で行かなければ獲れません。グズグズしていたら読売に持っていかれます」。加藤の答えは「行け!」だった。(特別取材班)=敬称略=

 ◆1986年の星野仙一 39歳だったこの年、NHK「サンデースポーツスペシャル」のキャスターとしてお茶の間でも人気を博し、松下電器など8社のCMに出演。女性誌では「笑顔が無邪気で明るい」「母性本能をくすぐられる」といった理由で「不倫したい男NO1」に選ばれた。2年連続Bクラスに沈んだ中日の再建を託され、秋には新監督に就任。“燃える男”のチームづくりに世間の注目が集まっている中での、大トレード成立だった。

【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(2)「今出して下さい」と球団に言える?

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↑85年、2度目の3冠王が確定、自宅で取材に応じた落合(右)と信子夫人

 移籍騒動勃発から1週間余りが過ぎても、スポーツ紙の1面は常に落合だった。当時の報知新聞にこんなコメントが載っている。

 「家の前に報道陣の黒塗りの車がズラーッと並んでいるのは、気分がいいもんだな」。過去に3冠王を獲得した時でさえ、これほどの注目は浴びていない。時は1986年。「人気のセ、実力のパ」なんて言葉がまだあった時代だ。

 そんな中、夫婦そろってフジ系の情報番組「3時のあなた」に出演した。司会の寺島(現・富司)純子から「年俸2億円ならロッテに残りたいんでしょ。どうなの?」と迫られても、落合は核心に触れず。そこへ果敢に突っ込んだのは信子夫人の方だった。

 「機会があるんだったらセ・リーグでもプレーさせたいって話したの。そしたら、『信子夫人がトレード志願』って大騒ぎになっちゃった。今で言うなら『炎上』しちゃったのね」

 炎上覚悟の大胆発言の裏にはファンの声があったという。「あの頃はウチにはがきが来るんです。『パで3冠とってるけど、セでもとってみろよ』って、毎日来るの。全国からですよ。ファンも見たかったと思うから、私も言ったのよ」

 同じ頃、巨人では王監督が「ドラフト後に検討したい。それだけの価値はあると思う」とのコメントを出した。「トレードとなったら大きな見返りを要求されるだろうね。じっくりいきましょう」。ただ結果として、早くから本命視されたため身動きが取れなくなったことが、明暗を分けることになる。

 信子夫人は振り返る。「落合は『ダメなら、やめればいい。野球をやめたらソバ屋になろうかな』とか言ってるし。私は落合を世に出すためにって必死だったから」。そこに接近してきたのは中日だった。「当時の中山球団社長が、月刊誌に載った私の『セでもやらせたい』という発言を読んだんですって。星野さんも『お会いしたい』と」

 中山社長は、さっそくコンタクトをとって猛アピールしてきたという。「『夫婦で中日に来て下さい。単身赴任じゃダメ。名古屋は住めば都です。奥さんがついてきて下さい』ってね」

 まだ中日と決めてはいなかったが、「セ移籍」という思いは、もう止められない。信子さんは落合に言った。「ロッテにサヨナラして、『セ・リーグに武者修行に出して下さい、今出して下さい』と、球団の上の人に言える?」(特別取材班)=敬称略=

 ◆1986年の落合博満 33歳シーズンはロッテの主軸で打率3割6分、50本塁打、116打点。2年連続3度目のパ・リーグ3冠王を獲得した。2年連続3冠王は両リーグ通じて巨人・王貞治(73、74)、阪神・バース(85、86)に次いで3人目。3度の3冠王獲得は、落合だけしか成し遂げていない。また前年の52本塁打に引き続き、プロ野球史上初となる2年連続50本塁打を達成した。

【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(3)サバ読んで観客700人…悲惨だった「セパ格差」

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↑86年9月19日、両リーグトップの40号本塁打を放ったロッテの落合(捕手は日本ハム・田村)

 12球団屈指の熱さを誇るマリーンズファン。今や応援パフォーマンス自体が名物になるほどだ。ZOZOの右翼スタンドには常に熱気が渦巻くが、30年前の川崎球場はどうだったのか。86年の本紙ロッテ担当だった北沢正人(75)は、外野席のこんな風景を目撃している。

 「いつも観客動員は芳しくなかったけど、その日は特に少なかった。それで記者席から数えてみたら、右翼ポールから左翼ポールの間には23人しかいなかったんですよ」

 当時は記者席の方が、はるかに人口密度が高かったという。「さすがに肩を落としていたら、球団広報が入ってきて、『本日の観衆は700人でお願いします』って…」。思い切りサバを読んでの700人も悲惨だ。担当記者もガックリくるが、グラウンドでプレーしている選手はもっとさみしい思いをしていた。

 落合の移籍はあくまでも「高い評価=年俸」を求めてのことであり、慕っていた稲尾監督を解任した球団への不信がそのきっかけになったのだろうが「セ・パ格差」への思いもあったかもしれない。その頃、「パの野球をバカにされないようにするには、オレがセに行って3冠王を取るのが一番だろ」とも語っている。

 ちなみに落合の視野に入っていたのはセ・リーグだけではない。信子夫人は言う。「ロッテ時代にはメジャーからも声がかかっていたのよ。『オレがアメリカに行ったら、お前はどうする?』って聞くから、地の果てまでついて行くと答えたの。でも、この人の一番悪いところなんだけど、食べ物の好き嫌いがね。それで『オレ行かないよ』と。じゃあ、いいかって泡のごとく消えちゃった」。

 さて、移籍騒動の勃発から2週間余りが経過した11月20日。有藤監督が派手にぶちあげた。「これは仮定の話だが、巨人とのトレードが1対3になるなら全員投手を、それも若くて将来性のある投手を要求する。江川と槙原、桑田をくれないかな。落合の代わりになる野手はバースくらいだ。巨人にはいない」

 このあまりに現実味のないコメントは、何を意味していたのか。その2日後、22日付の報知新聞は「巨人宣言 落合取り凍結」と1面で報じた。そして―。

 「どうしても、この選手が欲しい。そのためならどんな犠牲でも払う。落合の時は、そういう感じだったね」。いよいよ39歳の青年指揮官・星野仙一が動き出した。(特別取材班)=敬称略=

 ◆落合騒動の余波 当時の報知新聞では交換要員として報じられた巨人・斎藤雅樹投手(現2軍監督)の談話が紹介されている。「トレード要員として、ボクの名前が出てきたでしょ。ある新聞で『もし行けと言われたら?』と聞かれて『仕方ないでしょう』と答えたら『移籍OK』みたいに書かれてしまった。あれはマイッタですよ。両親も『決まったら決まったで仕方ないよ』と変ななぐさめ方をするし…。(落合の中日入団)会見を生中継したニュースステーションは、かじりついて見ちゃった。家中みんな拍手ですよ」

【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(5)「みんな世間が狭いんだよ」

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↑翌87年の3月11日には熱田球場でのオープン戦で落合と牛島が因縁の対決。落合が中前安打を放った

 オーナーのお墨付きをもらった中日の新監督・星野仙一は球団首脳と交換要員の検討を始めた。だが、ロッテから要求されたのはチームきっての人気投手、25歳の牛島和彦だった。

 「牛島は全く頭になかった。(ロッテには)『誰でもいい』と言っているんだから、想定しておかなくちゃならないんだけどな」

 移籍騒動勃発から1か月。進展しない交渉と過熱する取材攻勢に、さすがの落合博満も参っていた。86年12月2日の報知新聞では「今のオレには何が善で何が悪か、何が真意で何が誤報なのか、分からなくなった」と激白。家には中傷の手紙や電話も相次いだという。

 それでも6日には信子夫人とのデュエット曲「そんなふたりのラブソング」のレコーディングを敢行するなど、オレ流のペースは崩さなかった。

 12月22日、ロッテの松井球団社長が中日から打診があったことを明かすと、事態は一気に動く。そして、翌23日には両球団から落合と牛島プラス3選手(桑田茂投手、平沼定晴投手、上川誠二内野手)の「1対4トレード」が発表された。

 ただ、星野にはまだ仕事が残っていた。牛島の説得である。24日のクリスマスイブ、2人は深夜に星野の自宅で会った。「『辞めます』と言うから、オレは『辞めるんなら辞めろ』と。本当に辞められる怖さはなかったかだって? そんなの怖がっていたら、監督なんかできるかい!」

 腹はくくっていた。「お前が辞めるのなら、小松(辰雄)を出さなきゃいけない。今からオーストラリアにいる小松に連絡しなくちゃならないな。時間をやるから頭を冷やしてこい」

 翌25日、牛島は移籍を了承し、記者会見に臨んだ。星野は報道陣の後ろで会見を見守った。「“人間・星野”ならできなかった。オレは牛島をかわいがっていたから。だけどもオレは“監督・星野”なんだ。ここで情を絡めたら、オレの監督人生はおかしくなってしまうって、考えてたなあ」

 星野は振り返る。「あの時、落合が巨人に入っていたら、中日の監督になることもなかった。牛島も横浜の監督になった。(日本ハムに行った)大島とか、オレが獲ったり出したヤツは結構、監督になっている。まあ、そういうことですよ。今はトレードというものを各球団が怖がりすぎている。同一リーグへ出して活躍されたら…とか考えて。みんな世間が狭いんだよ」

 この大型トレードは、FA制度導入へのきっかけの一つとなった。そして、その制度を利用して落合が巨人に移籍するのは、それから7年後のことである。(この連載は仙道学、加藤弘士、戸田和彦が担当しました)=敬称略、おわり=

 ◆生中継された移籍会見 世紀のトレードは12月23日の午後10時過ぎに両球団から発表され、落合の会見はテレ朝系「ニュースステーション」で生中継された。会見が遅くなったのは信子夫人とのデュエット曲「そんなふたりのラブソング」のPRのため、文化放送の出演が決まっていたから。午後9時15分に収録を終えた落合は、すぐ四谷から西新宿のロッテ本社に向かった。中山大三郎氏の作詞作曲による同曲は翌年1月22日に発売予定だったが騒動に乗じて前倒しされ、12月27日に東芝EMIから緊急リリース。スマッシュヒットとなった。

【巨人】岡本3年目「幸村になる」チームの大型補強も「打てば道はひらける」

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↑3年目のシーズンに向け契約を更改し、会見に臨む岡本

 巨人・岡本和真内野手(20)が26日、来季のテーマを「真田幸村」に設定した。プロ1年目は「ジョニー・デップ」、2年目の今季は「反町隆史」を名乗ってきたが、飛躍を目指す17年シーズンは、“日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)”と称された武将になりきる。「結果を出せばどうにかなる。打てば道はひらける」。大型補強によってレギュラー奪取への道は険しくなったが、だからこそ、幸村のごとく勇猛果敢に挑む。

 精悍(せいかん)な顔つきだった。来季のテーマについて、岡本は即答した。

 「真田幸村ですね。武士のような心で頑張りたい」

 真田幸村といえば、大坂の陣で大活躍した戦国時代の武将。無勢ながら徳川本陣まで攻め込み、家康を追いつめた奮闘ぶりは、“日本一の兵”と呼ばれた。今年の大河ドラマ「真田丸」はその生涯を描き、多くの視聴者の心をつかんだ。岡本はプロ1年目に「奈良から来たジョニー・デップ」、今季CS直前に1軍合流した際には「宮崎から帰ってきた反町隆史」を名乗ったが、17年は伝説の武将になりきる。

 チームの大型補強によって、レギュラーへの道はこれまで以上に険しくなった。高橋監督は、本来の三塁と一塁に左翼を加えた「3ポジション」でチャンスを与えると明言していたが、内野では阿部、村田のほか、元楽天のマギーが加入。陽岱鋼の入団によって、外野も例年以上の激戦区だ。

 「基本的には三塁でいきたい気持ちはありますが、1軍で試合に出られればいい。打てば道はひらけると思います」

 強力布陣に割って入るからこそ、果敢に大軍に立ち向かっていった幸村を目指すことにした。

 異国での武者修行も、闘志を奮い立たせるきっかけになった。10月末からプエルトリコに渡り、約2か月間、ウィンターリーグに参戦。34試合で打率2割5分7厘、0本塁打、8打点という結果だったが、現役メジャーリーガーもいる環境は刺激にあふれ、チームメートの言葉も心を動かした。

 「衝撃を受けたのは、『野球はただでさえ難しいのに、自分でさらに難しくしてどうするんだ?』と言われたこと。自分の中にはない考え方だったので、幅が広がりました」

 シンプルにプレーすることが原点と気づかされた。今季1軍では3試合、打率1割。調子の波が大きかったことを反省点に挙げる。

 「(練習や調整方法を)一度ぶち壊して、つくり直していきたい」

 この日の契約更改では200万円減の年俸1200万円でサイン。高卒3年目の来季は、この先を占う年になる。DeNA・筒香、ヤクルト・山田、日本ハム・中田らは3年目に出場100試合をクリアし、日本球界の中心選手へと上り詰めていった。

 「自分が頑張って結果を出せば、どうにかなる。少ないチャンスを生かせるようにしたい」

 劣勢だろうが、はね返す自信はある。(尾形 圭亮)

 ◆真田幸村とは 戦国時代の武将。「幸村」の名が有名だが、本名は「信繁(のぶしげ)」。1567年(諸説あり)に信州の小さな領主だった真田家に生まれ、若き日に上杉景勝、豊臣秀吉の人質として暮らした。関ケ原の戦いでは、西軍につき、高野山に幽閉。1614年の大坂冬の陣では、大坂城の一角に「真田丸」と呼ばれる砦(とりで)を造り、劣勢の中、徳川家康軍を相手に果敢に戦った。1615年の大坂夏の陣では、家康軍を追いつめるも最後は討ち死にした。今年のNHK大河ドラマでは、幸村の生涯を描いた「真田丸」が放送され、俳優の堺雅人(43)が主演を務めた。

「アホやな」宮崎まで1400キロ!走ってジャイアンツを応援しに行くジョージマン北!

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↑2月、1400キロを走破しキャンプ地の宮崎に到着したジョージマン北(左)を祝福する長野

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↑ジャイアンツ球場前の急勾配をランニングするジョージマン北

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↑ソフトバンク時代の城島健司さんとジョージマン北(左)

 東京から宮崎まで約1400キロ。その道のりを約20日間かけて走破する芸人がいるのをご存知だろうか。元プロ野球ソフトバンク・城島健司さん公認のモノマネで知られる、兵庫県出身のお笑い芸人、ジョージマン北(51)だ。

 芸能活動の傍ら、社会人野球チームにも所属し、捕手としてプレーしていたが、左膝の変形性関節症を患いやむなく引退。その後、トレイルランで身体を鍛え上げ、膝痛を克服した努力の人だ。

 2年前に85キロあった体重は現在61キロ。食生活を見直し、炭水化物、大好きなお酒も節制する徹底ぶり。

 51歳にして腹筋はサッカーレアル・マドリードのC・ロナウドのように割れている。

 今年だけで6つのトレイルランの大会に出場、好記録を出した「ふれあいの道(高尾~桧原)トレイル・チャレンジレース」では42.2キロを6時間53分13秒で完走。年代別1位で表彰された。

 一昨年の夏。「巨人のキャンプ地の宮崎まで走って行きますわ」と興奮した様子でジョーさんから電話があった。正直、無理だろうと思っていたが、毎日のように更新されるフェイスブック等で、月間400キロを走って準備していることを知った。

 練習は昼夜問わず、東京・稲城市にあるジャイアンツ球場の急勾配や、高尾山の険しい山道を走る。時には裸足で走り鍛え抜いた。 甘えは全くなかった。豪雨の日も、炎天下の日も走った。「レースは天候を選べないですからね。だから今日はやめよう、そう思うことはなかったですよ」。練習中の巨人選手からも「またあの芸人さんが、坂を走っているよ」と注目されるようになった。

 今年2月。夕暮れの巨人キャンプ地・宮崎県総合運動公園に26日間かけて到着した。交流のある巨人・長野選手は居残り練習中だったにもかかわらずバットを置いて出迎え、「ナイスラン」とがっちり握手。その夜には、秦バッテリーコーチが“完走会”を開いてゴールを祝福した。

 約1400キロの道中、見知らぬ人の応援を受け、差し入れもあった。様々な出会いがあり、励まされたという。

 「本当にみなさんに感謝しています。ありがとう!!」。大好きなビールで乾杯した。

 そんなジョーさんが2年連続で来年もまた走る。

 それを聞いた長野は「ジョージマンさん、すごいですね。身体には十分気をつけて頑張って下さい。宮崎で応援しつつ、お待ちしています」とエールを送った。

 そもそも1400キロ走る理由は何なのか?「ジャイアンツの応援だよ」と笑いながら話したが、自分自身へのあくなき挑戦でもあるという。10年間続けて、60歳になった時にキャンプで関係者に配られる巨人の帽子を「10個並べて写真を撮るんだ」と話す。「アホやな」と言われても構わない。こんなことができるお笑い芸人は他にはいない。

 2回目の挑戦だ。来年1月15日午前9時、友人らに見送られジャイアンツ球場をスタート。昨年とは少し違うルートで、熊本の山中を経由、今年2月11日よりも1週間早い到着を目指す。

 1日70キロ走る計算だ。その模様は随時、自身のフェイスブックで実況される。雨にも風にもジョージマン北は負けない。ゴールとなる宮崎県総合運動公園で、温かく迎えたい。(記者コラム・橋口 真)

安田美沙子の夫、不倫を認め謝罪「一生をかけて妻とお腹の子に償っていくつもり」

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↑安田美沙子

 第1子を妊娠中のタレント・安田美沙子(34)の夫でデザイナーの下鳥直之さんが一部週刊誌で不倫を報じられたことについて、28日、自身の公式HPを更新し事実を認め謝罪した。

 代表を務める「VICTIM」の公式ホームページのダイアリーを更新した。

 以下、ダイアリー全文

 この度は私、下鳥直之は既婚者でありながら妻以外の女性と不倫をした事実を認めます。妻と関係者の皆様、そしてご友人の皆様、そして相手の女性には多大なご迷惑をお掛けした事を深く反省し、お詫び申し上げます。

 事実を妻に打ち明け、心から謝罪を致しました。僕にとって、とても大切な存在である妻の大事な時期にしてしまった行動をとても反省しております。

 そして相手の女性にも全ての事において謝罪し、これから先、連絡を取らない事を約束しました。本当に申し訳ない事をしてしまったと、後悔しております。

 私の軽率な行動の愚かさと責任の重さは、どう謝罪しても許される事ではないことは、十分に承知しております。

 これから先、一生をかけて妻とお腹の子に償っていくつもりです。妻や大勢の方々に大変なご迷惑をお掛けしてしまった事を深く謝罪するとともに、失った信用を毎日少しずつでも取り戻していけたらと思っております。この度は本当に申し訳ございませんでした。

「ただただ憧れの人でした」椎名桔平…根津甚八さんを悼む

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↑椎名桔平と根津甚八さん(右)

 29日午後に亡くなった俳優・根津甚八さん(享年69)の訃報に接し、多くの映画、舞台などで共演した俳優・椎名桔平(52)が、お悔やみのコメントを寄せた。

 「訃報を聞いてから涙が止まりません。そのまま想(おも)いを綴(つづ)ります。根津甚八さんは僕にとって、ただただ憧れの人でした。石井隆監督の映画「ヌードの夜」(1993年)が根津さんとの出会いでした。

 根津さんが在籍された劇団『状況劇場』の流れをくむ『新宿梁山泊』に僕が在籍していたご縁もあり、初対面で『憧れです』と申し上げたこともあったのでしょうか、それ以来、本当の弟のごとく可愛(かわい)がっていただきました。いろんなことを教わりました。

『役者は世阿弥が著しているように、現実と虚構の狭間(はざま)をゆらゆらと生きるものだよ』

『生き様が芝居に繋(つな)がるんだよ』

『お前はもっと力を抜いて』

『体の姿勢は大事だぞ』

『本当にそれでいいのか』

 また、涙が出ます。止まらないままです。『その後の仁義なき戦い』(79年)、『さらば愛しき大地』(82年)をご自宅で見せてくれましたね。その際の役作りも踏まえながら。宝物として大事にしまってあります。

 晩年、お会いさせていただくことは叶(かな)いませんでしたね。根津さんの気高さは、僕にとって生涯の指標となるでしょう。

 根津さん、僕らにも計り知れないほどの張り詰めた役者人生だったと思いますが、天国ではゆったりとお芝居を楽しんでください。僕は大丈夫です。演技に困った時には、根津さんの言葉を思い出しますから」

【巨人】陽岱鋼、生涯巨人!骨うずめる「覚悟はしている」

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↑堤GM(右)と握手を交わす陽岱鋼(読売新聞社提供)

 【台北(台湾)28日=片岡優帆】日本ハムから巨人に5年15億円でFA移籍した陽岱鋼外野手(29)が、出身地で入団会見を行った。地元メディア29社、テレビカメラ25台、報道陣計90人が集結する中「生涯巨人」の覚悟を口にし、日台交流の象徴的存在になると誓った。同席した堤GMは、来季の主催全試合を台湾で放送するプランを披露。会見はテレビ2局で生中継され、現地は陽フィーバーに包まれた。

 故郷のメディアから無数のカメラのフラッシュを浴びた。陽は豪華なシャンデリアの照明が輝く会見場で満面の笑みだった。19日に都内で行って以来、2度目の入団会見。「私は台湾出身なので、台湾で行うのは当然のことです。Gの球団旗の前でこうして会見できて心からうれしく思います」。中国語で巨人入りの喜びを報告した。

 台湾に凱旋したスターに、地元記者から次々と質問が飛んだ。特に注目を集めたのは、5年の長期契約。「5年後は34歳。その後も巨人で一生続けたいか?」と聞かれ「一つのチームに長くいられるのはうれしいことです」と答えた。巨人に骨をうずめる覚悟について「覚悟はしている。伝統あるチーム。毎日プレッシャーと向き合い、どう解決するか考えていきたい」と言い切った。

 来季から本拠地は東京になる。陽は「北海道よりも近くなる。もっともっと台湾の皆さまが僕のプレーを見に来てくれることを期待しています」と呼びかけた。台北とは飛行機で3、4時間の好アクセス。今季は3軍が台湾遠征を行った。友好関係をさらに発展させる象徴として、1年でも長く巨人でプレーしたい。「5年間でどれだけの成績を残せるかもポイントになる」と責任感を口にした。

 現地の新聞報道では「陽は3月のWBCに必要だ」などと連日記事になっており、英雄の台湾代表待望論が過熱している。この日も質問が出たが、堤GMは9月に札幌Dの試合でフェンスに激突して肋骨(ろっこつ)を骨折した点を挙げ「回復状況を見極めたい」と説明。陽は「球団と話し合って今後、皆さまに素晴らし応答ができることを願ってます」と意欲を示した。

 会見場の「パレ・デ・シン(君品酒店)」は台北駅近くの一等地に立つ5つ星ホテル。中国語、日本語訳が交互という形で約40分間、行われた。「あれだけたくさんのメディアの方が来てくれてうれしい。(巨人は)日本中の視線が集まると思うので言動、行動には注意します。5年間を無駄にしたくない。一日一日、意味のある時間を過ごしたい」。故郷の熱気を肌で感じ、活躍を約束した。

【巨人】台湾フィーバー!陽岱鋼は「台湾のスター」入団会見2局で生中継

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↑大勢の台湾メディアを前にして、入団会見を行った陽岱鋼(壇上右は堤GM=読売新聞社提供)

 【台北(台湾)28日=片岡優帆】日本ハムから巨人に5年15億円でFA移籍した陽岱鋼外野手(29)が、出身地で入団会見を行った。地元メディア29社、テレビカメラ25台、報道陣計90人が集結する中「生涯巨人」の覚悟を口にし、日台交流の象徴的存在になると誓った。同席した堤GMは、来季の主催全試合を台湾で放送するプランを披露。会見はテレビ2局で生中継され、現地は陽フィーバーに包まれた。

 台湾での陽岱鋼人気の高さを実感した。前夜27日の現地テレビのニュースでは「陽がいよいよ明日会見」と特集。今年3月の札幌Dのオープン戦で巨人・ポレダから本塁打を打った場面が何度も流れた。この日は、新聞の朝刊で「君品酒店で11時から会見」(酒店はホテルの意味)と時間と場所まで予告。厳重な警備でファンは会場に入れず混乱はなかったが、それほど注目度が高かった。

 14年には福山雅治がコンサート前に会見した最高級ホテル。開始前、報道陣に用意されたケーキバイキングに気を取られていると、台湾テレビ局「民間全民電視公司」の男性アナウンサーから「日本の記者?」と声をかけられた。インタビュー取材の依頼だった。「日本の盛り上がり」などを通訳を通して聞かれ、カメラの前で話した。

 その後、このアナウンサーに「なぜ、こんなに陽が人気なのか」と聞いた。「性格が明るいから。台湾のスターです」と話していた。台湾のスポーツ選手では、米大リーグで活躍した王建民投手に次ぐ人気で、最近のネットのアクセスランキングは陽の記事がダントツ。スポーツ報知の記事もよく紹介されるという。

 台湾の4大新聞の一つ、聯合報(れんごうほう)の女性記者にも聞いた。「陽選手が入って、台湾で巨人ファンが急増しています。来年は多くの人が東京に応援に行くでしょう。私も最近、巨人について勉強しています。好きな選手は長野選手。同世代なのですが、話し方が格好いい」。陽効果で、巨人の他の選手の知名度まで急上昇していた。

 報道陣90人が集まった会見は、台湾のテレビ局2局で生中継された。現地メディアに配られた球団特製のベースボールカードには、陽のサインと日本語で「日本一」と記してあった。今後、台湾で巨人人気が加速すると確信した。

米倉涼子が離婚「前を見て進んでいきたい」…14年末に電撃婚も3か月半後に別居発覚

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↑米倉涼子

 女優の米倉涼子(41)が30日、離婚したことが明らかになった。所属事務所がFAXで「2016年12月30日に協議離婚が成立いたしましたこと、ご報告させていただきます」と発表した。

 米倉は直筆サイン入りで「これからも女優として、一人の女性として、前を見て進んで行きたいと思っております」とコメントした。

 離婚の経緯などについて所属事務所は「内容・詳細に関しましては、お相手の方が一般の方ということもありますので、離婚したという事実以外は何もお答えすることができません。また今後も離婚の事実以外は語らない約束となっておりますので、経緯、詳細などに関しましてはご容赦いただきたくご理解いただけますようお願い申し上げます。この件に関しまして、本人が記者会見を行う予定はございません」とした。

 米倉は14年12月26日に2歳下の会社経営者と交際1周年の記念日に電撃婚したが、その3か月半後には離婚に向けた準備を進めていることが明らかになっていた。

 ◆米倉涼子コメント全文

 私たちは時間をかけ協議を重ねた末、この度、離婚が成立致しましたのでご報告させて頂きます。私事でお騒がせしましたことお詫び申し上げます。これからも女優として、一人の女性として、前をみて進んでいきたいと思っております。また新たな気持ちで自分らしくいろいろなことに挑戦していけるよう、日々精進して参ります。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
米倉涼子(直筆サイン)

 ◆米倉涼子(よねくら・りょうこ)1975年8月1日、横浜市生まれ。92年「第6回全日本国民的美少女コンテスト」で審査員特別賞を受賞して芸能界入り。95年に「CanCam」の専属モデルとして本格デビュー。主演ドラマ「黒革の手帖」「ナサケの女~国税局査察官~」「ドクターX~外科医・大門未知子~」がヒット。06年に「黒革の手帖」で初舞台を踏み、12年には米ブロードウェーでミュージカル「CHICAGO」に出演。特技はクラシックバレエ。身長168センチ。血液型B。

【巨人】スポーツ報知1面大賞は由伸監督!ぶっちぎりの34回

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↑報知巨人1面大賞2016

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↑2016年1月1日付1面

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↑※今年1月1日付から12月26日付の首都圏宅配最終版を集計。巨人1面は他に脇谷亮太、吉川尚輝(ともに2回)、石川慎吾、吉川光夫(ともに1回)などがあった。

 2016年も残りわずか。今年もジャイアンツの面々が、何度もスポーツ報知の1面を飾った。その中で、登場回数が最も多かったのは誰なのか? 堂々の1位は、高橋由伸監督(41)だ。菅野も坂本も、そして日本ハムの大谷も突き放してのぶっちぎりV。巨人担当が座談会を開き、今年1年をしみじみと振り返った。

 デスク(以下デ)「いやあ、サブちゃんの『まつり』、ナマで聴きたかったなあ」

 水井キャップ(以下水)「競馬ですか? 今日の1面は『キタサンブラック 届かず』か『サブちゃん不発』ですか」

 デ「そんなことより、巨人は1面ネタないのか?」

 水「ないです」

 デ「なにぃ!」

 小島(以下小)「ハイ、今年の1面は誰が一番多かったのか。集計が出ました」

 デ「そういう“1面ネタ”の話じゃないんだがな。で、1位は坂本か? 首位打者に輝く最高のシーズンだったもんな」

 小「違います。由伸監督です。34回でした。巨人の順位は、2位が菅野で坂本、阿部と続きました」

 尾形(以下尾)「阿部さんが4位ですか。いつも『本当にネタに困ったら俺が提供してやるから言ってこい。本当に困ったときだけな』と神のような方でして…。4位ですか…」

 片岡(以下片)「長野は『明日どんな写真使うの? かっこいいやつにしてね』って気にしますね。長野の1面は特にチェックを厳重にしています」

 水「監督が1位は当然だよ。負けた試合で1面やるなら監督になる。でも『もっと厳しく書けよ。それが事実なら仕方ない』って言ってくれるから助かってるよ」

 宮脇サブキャップ(以下宮)「先発投手は完投勝利すれば1面確定になる。でも、菅野は打線の援護も少なかった影響で負けも多かった。そんなときでも1面だったしね」

 安藤(以下安)「巨人以外では日本ハムの大谷が菅野と並んで19回です。トレードで入団した(前日本ハムの)石川(慎吾外野手)が『あいつは本当に全てが別格。野球楽しいだろうなあ』って言ってました」

 水「趣味が野球なんだろ? 買い物とか行かないのかな」

 安「知りません…。でも石川が言うには、入団したときは『着てれば何でもいいです』って。めっちゃダサかったけど、最近はおしゃれになってきたようです」

 小「他のジャンルで多かったのは芸能部門でSMAP(10回)です」

 片「さすが、元芸能記者」

 水「SMAPファンは熱狂的でスポーツ新聞を一気に4紙、5紙と買って帰るらしいね」

 宮「解散騒動から、本当に解散になっちゃったからなあ。ついつい読んじゃったし、気になっていた」

 水「巨人にも“ジャニーズ級”の人気選手はたくさんいる。坂本、長野、亀井、宮国とか、ベテランでは内海とか。阿部のトークに期待しているファンも多い」

 デ「来年はリーグ優勝、日本一になって1面を飾ってほしいね」

 ◆1面はどう決める? ペナントレースの期間中ならば、各球場の試合経過を見届けながら、責任デスクが現場の記者と打ち合わせを繰り返した上で1面候補をリストアップ。一般スポーツ、芸能、競馬などのトップニュースと比較し、編集局次長が最終決断する。1面は「顔」であるだけに、その選択が駅やコンビニでの売れ行きを大きく左右する。24時を過ぎてニュースが飛び込み、内容が大きく変わることも日常茶飯事だ。

【巨人】吉川光、後輩の広島・野村との投げ合いへ闘志「先にマウンドを降りない」

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↑広陵高野球部有志の会が主催する少年野球教室に参加した吉川光(右)と野村

 巨人の吉川光夫投手(28)が29日、母校・広陵高の1学年後輩で今季16勝でセの最多勝右腕、広島・野村との投げ合いへ闘志を燃やした。この日、広島市内の広陵高で行われた野球教室に参加。「野村より先にマウンドを降りないように。負けないように頑張りたい」と先輩の意地を見せる。

 それまで穏やかだった吉川光のまなざしが、一気に鋭くなった。広陵高で行われた野球教室では、ブルペンで野村と並んで小学生にアドバイスを送るなど和やかなムード。しかし終了後、後輩右腕との対戦について聞かれると「勝ち負けはチームの関係もありますけど、野村より先にマウンドを降りないようにしたいと思います」と力強く言い切った。

 野村は今季16勝(3敗)、勝率8割4分2厘で最多勝と最高勝率の2冠を達成。広島の25年ぶりのリーグ制覇に大きく貢献した。これまで公式戦で投げ合ったことはないが、リーグが変わったことで投げ合う機会も増える。「負けないように頑張りたいです」と意気込んだ。

 来季は12年にパ・リーグMVPを獲得した際の自身の記録を上回る「15勝」「最低7回」「年間180イニング」「年間5完投」を公約に掲げ、達成のため今オフはランニングの量を増やして体づくり、体力強化に取り組んでいる。今季、巨人はリーグ優勝した広島とは17・5ゲーム離され、野村には4試合で0勝3敗と抑えられた。力強さを増した肉体で野村との投げ合いを制せば、それだけチームの優勝も近づく。

 この日は甲子園を目指して3年間、汗を流したグラウンドで指導を行い「高校時代はつらかった思い出しかないけど、広陵は僕の原点」と初心に帰った。母校の後輩・小林とも交流し、「何とか2人で抑えていけるようにしたい」。“広陵バッテリー”で意思疎通を重ね、V奪回の切り札になる。(小島 和之)
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