(1)みんな負けるところを
見に来ている
↑1998年、ロッテのエースとして活躍した黒木
18連敗―。ドラフトによって戦力が均衡され、実力が伯仲するプロ野球の世界で、ここまで負けることは考えにくい。ロッテが1998年の6月から7月にかけて演じた悲劇は、今もなおプロ野球ワースト記録として残り、語り継がれる。当時の主力投手だった黒木知宏氏(現日本ハム投手コーチ)、監督だった近藤昭仁氏の証言をもとに、逆境の中で苦しみながらも、戦い続けた男たちのドラマを再現する。
七夕の夜の出来事だった。黒木は18年前を振り返る。
「織姫と彦星の1年に1度しかない日―。ロマンチックな日ですけど、僕には違う一日ですね。忘れろって言っても、無理ですよ」
98年7月7日。ロッテは出口の見えないトンネルをさまよっていた。6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から始まった黒星は、プロ野球ワーストタイの16連敗まで膨らんでいた。GS神戸で行われたオリックス戦。負の連鎖を断ち切るために先発したのは、「ジョニー」の名で愛された魂のエース・黒木だった。
「何が何でも連敗を止めると。『腕がもげてもいい』という思いでした」
注目度は高かった。5位と6位の対決ながら、フジ系で全国に緊急生放送される異例の事態に。大報道陣が勝敗を注視していた。
「みんな負けるところを見に来ている。絶対に負けられないって、メラメラきてましたよね。でもグラウンドに出るとき、当時ヘッドコーチだった広野功さんから『ジョニーは幸せだね』と言われたんです。『これで勝ったら、これで負けたら…という大事な試合で投げられる。幸せだよ』って。幸せだ―というのが、僕の中で響いたんです」
鬼気迫る表情でジョニーは右腕を振った。だが、この夜の神戸は高温多湿の悪条件。人知れず、黒木の体には異変が生じていた。
「6回で脱水症状になって…。マウンドに上がってボールを投げると、全身にけいれんを起こしていることは分かっていました。だけど、連敗を何とか止めないといけないし」
これは大型連敗の最大の要因でもあったのだが、当時のロッテはWストッパーの河本育之、成本年秀をけがで欠き、終盤を託せるリリーフが不在だった。だからこそジョニーは首脳陣に異常を告げることなく、奮投するしかなかった。
8回を終え2安打1失点の快投。3―1とリードは2点。勝利の瞬間まで、あとアウト3つに迫っていた。
「ただ、本当は記憶があまりないんです。無我夢中で何も考えず、ひたすら1つのアウトを取る作業しかやっていなかったから」
9回。先頭のイチローを三振に封じた。記憶がおぼろげな中でも、背番号51の表情は脳裏に焼き付く。
「イチローがギロッとにらみ返してきたことを覚えています。普通は日本ワーストタイだったら、哀れな気持ちがあるじゃないですか。ただ、イチローには関係なかった」
走者を許すが、2死までたどりついた。あと一人。誰もが連敗地獄からの脱出を、信じて疑わなかった。(特別取材班)=敬称略=
◆伸びなかった視聴率 ロッテの連敗は10を超えた頃から世間の関心事となり、ロッテ・ファンの落語家・立川談志は本紙の取材に「勝負は勝つヤツがいれば負けるヤツもいる。この際、とことん負けたらいいんじゃない。負けを楽しめと言いたいね」とエールを送っている。一方、フジ系でゴールデンタイムに全国生中継された「七夕の悲劇」は関東地区で視聴率3.3%と、数字的にも惨敗に終わった。
(2)あと1球―切れろ、切れてくれ
↑1998年7月7日のオリックス戦 9回2死一塁からプリアムに同点ホームランを浴び、うなだれる黒木を慰めるロッテナイン
プロ野球ワーストタイの16連敗が、やっと止まる。ロッテベンチだけじゃない。GS神戸の球場全体が異様な興奮に包まれていた。98年7月7日、オリックス戦。先発した黒木の力投で、勝利まであと1人に追い込んだ。3―1と2点リードの9回2死一塁。プリアムが右打席へと向かう。ジョニーの闘争心は最高潮だった。
「勝てると思いましたね。ファンの思い、チームの思いを受け止めて、最高の投球をしていたので。2ストライクに追い込んだときは、『よし、勝った!』と思いましたよね」
カウントは1ボール2ストライク。女房役の福沢は内角高めにミットを構えた。暗く、長いトンネルを抜けるまで、あと1球―。
「元々、僕の生命線はインコース高めの直球だったので、そこに投げたんですが、ちょっと引っかかったんです。それが低めにいってしまって…」
この日、黒木が投じた139球目。ローボールヒッターのプリアムはわずかな制球ミスを逃さなかった。内角低めの146キロを捉える。強烈な打球が左翼ポール際へと飛んだ。切れろ。切れてくれ―。切実な願いは届かなかった。同点2ラン。ジョニーはマウンドへと膝から崩れ落ちた。内野陣が集まり、声を掛けるが、立ち上がれない。
「人はよく『アタマが真っ白になる』って言うじゃないですか。『いやいや、真っ白になるなんて、ないだろう』と思うかもしれませんが、打たれた瞬間、本当に真っ白になりました。『あ、終わった』と。その後は記憶がなくて。抱えられて降板するところは数日後に映像で見て、『オレはこういうふうになっていたんだ』って。現実に悔しくて涙が出るとか、そういう感情はなかったです」
試合は延長に突入したが、その時点でフランコや初芝を交代させていた。強打者を欠き、守護神不在のチームに勝ち目はなかった。延長12回。3番手の近藤が代打・広永にサヨナラ満塁弾を浴びた。プロ野球ワースト更新の17連敗。悪夢から覚めることはできなかった。
投球中から脱水症状に苦しんでいたジョニーはゲームセット直前、右肩と右肘に強いけいれんを起こしていた。右腕を上げたまま立花コーチらに抱えられ、GS神戸を後にした。そんな痛々しい写真が、翌日の紙面に掲載された。宿舎に戻り、ケアをすませて午前1時半。裕子夫人に電話した。
「かける言葉もないですよね。『負けた』と言って『大変だったね』みたいな感じです。難しいですね。27個目のアウトを取るのは」
悲しくてやりきれない、七夕の夜が終わった。(特別取材班)=敬称略=
▽1998年7月7日(グリーンスタジアム神戸=観衆2万)
ロ ッ テ
002001000000――3
000100002004x―7
オリックス(延長12回)
(ロ)黒木、●藤田、近藤―福沢、清水
(オ)木田、水尾、ウィン、〇鈴木―日高、三輪
[本]キャリオン8号(木田・6回)プリアム11号2ラン(黒木・9回)広永1号満塁(近藤・12回)
※ロッテはプロ野球ワースト記録を更新する17連敗(1分け挟む)
(3)機能しなかった「守護神・ジョニー」
↑1998年6月21日、日本ハム戦の9回1死二塁、田中幸雄(右)に逆転サヨナラ2ランを打たれぼう然とする黒木
連敗地獄に陥っている間、ロッテの首脳陣は指をくわえて見ていたわけではない。序盤から打つべき手は打ったが、止まらなかったのだ。
4連敗を喫した藤井寺での近鉄戦から一夜明け。6月19日、帰京する新幹線の車中だった。前夜に先発し、6回2失点ながらも敗戦投手となっていた黒木は、マネジャーに声を掛けられた。「監督が呼んでいます」。何の用事だろう? 監督の近藤昭仁の隣に座ると、こんな打診を受けた。「クロ、明日からストッパーでいってくれ」。連敗の要因である守護神の不在をエース格・黒木で補う。秘策だった。
近藤「ストッパーの条件の一つは、球に力があること。黒木しかいなかった。だから『とにかく連敗を止めてくれ。止まったらまた先発に戻すから、頼む』とね」
黒木「『ハイやります』と二つ返事です。チームは危機的な状況。勝利に貢献すべきと感じてました」
出番はすぐに訪れた。翌20日の東京D、日本ハム戦。2―0とリードした8回裏、中1日で黒木は救援した。だが1点差に迫られると、片岡篤史に逆転2点二塁打を浴びた。チームは6連敗。悪夢は続く。21日の同戦は壮絶な打撃戦と化した。10―9とロッテが1点リードの9回裏、1死二塁。終止符を打つべく、ジョニーは連夜の登板を果たした。ところが田中幸雄への直球は、サヨナラ2ランに。2夜連続の失敗。10―11での敗戦で7連敗―。「10点取っても勝てないのか…」。ベンチは絶望感で満たされた。
なぜ「守護神・ジョニー」は機能しなかったのか。
黒木「マウンドに上がった時、力んでしまうんですよね。野手が点を取って、守ってくれた。前に投げた投手には勝ち星がついている。それをオレが壊してはいけないという、強い思いがありすぎて…。打たれた日は、気づいたら朝でした。悔しくて寝てない。僕の性格上、引きずってしまうんです」
気迫全開で白星を重ねてきた「魂のエース」。その持ち味がストッパーとしては、裏目に出てしまった。
二度あることは三度ある。26日、千葉マリンでの西武戦。1―1の延長11回、黒木は1死三塁で救援したが、またも空回りした。2失点し、3度目のリリーフ失敗。チームは10連敗となった。試合後、近藤は先発への再転向をジョニーに指示した。
フロントが抑えの切り札として新助っ人・ウォーレンの獲得を発表したのは、その翌日のことだった。翌99年には30セーブを挙げ、パの最優秀救援投手に輝いた右腕。近藤の言葉がせつない。「1か月前に来とったら、今オレがこうして取材受けることは、なかったよな」(特別取材班)=敬称略=
◆98年のジョニー 悪夢の「ストッパー3連敗」、さらには勝利まであと1球から同点2ランを浴びた「七夕の悲劇」など試練が続いた25歳の黒木だったが、終わってみれば13勝(9敗)で最多勝。5割9分1厘で最高勝率と2冠に輝き、初タイトルを獲得した。防御率3・29はリーグ2位。球団最年少の1億円プレーヤーになった。
(4)倒れるまで、やらせて下さい
↑1998年7月18日、プロ野球連敗記録を塗り替え、報道陣に囲まれ球場を出るロッテ・近藤監督
負の連鎖は、もはや人知を超越した段階に来ている。ロッテ・ナインがそれを痛感する“事件”があった。
14連敗のまま迎えた7月4日、千葉マリンでのダイエー戦、その試合前だ。午後4時半。練習を終えたナインを待っていたのは、千葉神社の宮司だった。厳かな衣装に包まれた神主を前に、監督の近藤昭仁ら首脳陣、選手25人が頭を下げた。前代未聞ともいえる球場での厄払い。重光昭夫オーナー代行の発案だった。一塁ベンチにはお神酒や清めの塩がまかれた。エース格だった黒木知宏はこう振り返る。
「僕は先発の準備でランニングをしていて、みんなが集まっている中に遅れて入ったんですが、『そこまで来てしまったのか…』と思いましたね。もう神頼みになってしまっていると」
皮肉にもその夜、神が与えたのはさらなる試練だった。延長11回、5時間9分にも及ぶ死闘の末、15連敗を喫した。ある球団関係者は自嘲気味に話した。「ウチはお菓子の会社だもん、盛り塩よりも盛り砂糖の方が、効果があるかもなあ」
連敗地獄の中、近藤の心労はピークに達していた。解任報道がさらにストレスを生んだ。それでもロッテグループの総帥・重光武雄オーナーからの激励の電話に、こう答えたことを覚えている。「倒れるまで、やらせて下さい」―。
例えばよくある「休養」といった選択肢は、なかったのか。当時60歳。今日4月1日で78歳になる近藤は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「逃げる気は、さらさらなかった。とにかく誰一人として、手抜きをしている選手はいなかったからね。選手の批判だけは、絶対しないようにと思っていたよ」
遠征先で落ち込んでいる時、心が熱くなる電話があった。声の主は元巨人監督・藤田元司だった。近藤は89年から91年まで、ヘッドコーチとして第2次藤田政権を支えてきた。「無理するな。勝てないときは勝てない。選手をくさすなよ」。温かい言葉が心にしみた。
実はロッテに縁もゆかりもなかった近藤が指揮官に就任したのも、藤田のはからいだった。ロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された藤田が、95年の横浜監督を最後に現場から離れていた近藤へと、白羽の矢を立てたのだ。「藤田さんから頼まれたら、断れないじゃん。他の人からの頼みだったら、やらなかったよ」
勝利に見放され、不眠に苦しんでいた時、藤田が「1錠飲めば、グッスリ眠れる」と睡眠薬をくれたこともある。口にすると、本当に熟睡できてしまった。近藤は言う。「飲むのをやめたよ。怖くなっちゃって。大変な仕事だよな、監督は」(特別取材班)=敬称略=
◆謎の爆発騒ぎも 12連敗を喫した6月28日。千葉マリンでの近鉄戦では6点ビハインドの6回裏、三塁側2階内野席で時限発火装置付きの爆竹が破裂。「バババーン」との爆音が球場内にこだまし、1万5000人の観衆や両軍が騒然となる一幕もあった。幸いけが人はいなかったが、千葉西署の警察官2人が現場検証を行うなど、球場は不穏な空気に包まれた。
(5)泥沼から生まれたファンとの絆
↑連敗中も大きな横断幕を掲げて声援をおくる応援団
人は何かを失ったとき、何かを手にする。18連敗は球史に残る屈辱だった。それでも敗者である彼らが、暗黒の27日間を通じて勝ち取ったものがある。それは、ファンとの固い絆だ。
98年7月5日、千葉マリン。ロッテはダイエーに3―10で大敗した。16連敗となり、日本記録に並んだ。4併殺に投壊。暴動が起きても不思議ではない。だが、選手出入り口前に集った200人のファンは、違った。声を振り絞って、歌った。
俺たちの誇り 千葉マリーンズ どんな時も俺たちがついてるぜ 突っ走れ、勝利のために
歌声と手拍子は1時間、続いた。大合唱は監督である近藤昭仁の耳に入った。暗闇の真っただ中にいた指揮官はその瞬間、目を真っ赤に潤ませた。ありがとう―。
心が折れることなく声援を送るファンの光景は、夜のニュースでも報じられた。エース格だった黒木知宏は翌々日の先発が決まっていたため、試合途中で球場を去り、帰宅していた。テレビ画面越しに応援団の思いが伝わってくる。黒木の頬にもまた、熱い涙が滴り落ちた。
「実はファンに怖さがあったんです。『何も起きなければいい』と。だけどテレビをつけたら、これだけ負けているのに、ファンが一生懸命歌っている。これまで『ファンのために』と言っていたけど、本当にそういう思いだったのか…。自分がゲスい気持ちになってしまったんです。だから7月7日は、何が何でも連敗を止めなきゃならない。腕がもぎれてもいいと思って、マウンドに立ちました」
脱水症状に襲われ、全身けいれんを起こしつつ熱投した「七夕の悲劇」は、その2日後の出来事だった。
18連敗が止まった数日後。球宴休みを利用して、近藤はある人物を食事に誘った。私設応援団「ガルズ」の団長・石井努だった。現役監督がシーズン中、私設応援団と会食することは、極めて異例だ。近藤は振り返る。
「本当はファン全員を招待したかったんだ。どんな時も必死になって応援してくれた。あの声援が、どれほどありがたかったことか」
黒木は現在、日本ハムの1軍投手コーチとして若き投手陣を指導する。18年前の「あの時」を球界の後進に語り継いでいくこと。これも自らの使命だという。
「当事者ですから、僕には伝えないといけない義務がある。『財産になります』ではなく、財産にしないといけない。ゲームセットまで、勝負はゲタを履くまでは、分からない―と」
光を求め、もがいた夏。男たちの記憶は、決して色あせることはない。(今回の連載は加藤弘士、小谷真弥が取材、執筆を担当しました)=敬称略・終わり=
◆小宮山で始まり、小宮山で終わった ロッテが18連敗を脱したのは7月9日のオリックス戦(神戸)。先発したエース・小宮山悟が14安打されながらも140球を投げ、6失点完投。9―6で打ち勝った。18連敗は6月13日、同じオリックス戦(千葉マリン)での小宮山の敗戦から始まっていた。注目度の高さから試合はTBS系のゴールデンタイムに生放送。連敗脱出は中継終了後、ドラマ「ひとりぼっちの君に」の中でテロップにて報じられた。
【あの時・98年ロッテあぁ18連敗】
(1)みんな負けるところを見に来ている
(2)あと1球―切れろ、切れてくれ
(3)機能しなかった「守護神・ジョニー」
(4)倒れるまで、やらせて下さい
(5)泥沼から生まれたファンとの絆
以上 です。
見に来ている
↑1998年、ロッテのエースとして活躍した黒木
18連敗―。ドラフトによって戦力が均衡され、実力が伯仲するプロ野球の世界で、ここまで負けることは考えにくい。ロッテが1998年の6月から7月にかけて演じた悲劇は、今もなおプロ野球ワースト記録として残り、語り継がれる。当時の主力投手だった黒木知宏氏(現日本ハム投手コーチ)、監督だった近藤昭仁氏の証言をもとに、逆境の中で苦しみながらも、戦い続けた男たちのドラマを再現する。
七夕の夜の出来事だった。黒木は18年前を振り返る。
「織姫と彦星の1年に1度しかない日―。ロマンチックな日ですけど、僕には違う一日ですね。忘れろって言っても、無理ですよ」
98年7月7日。ロッテは出口の見えないトンネルをさまよっていた。6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から始まった黒星は、プロ野球ワーストタイの16連敗まで膨らんでいた。GS神戸で行われたオリックス戦。負の連鎖を断ち切るために先発したのは、「ジョニー」の名で愛された魂のエース・黒木だった。
「何が何でも連敗を止めると。『腕がもげてもいい』という思いでした」
注目度は高かった。5位と6位の対決ながら、フジ系で全国に緊急生放送される異例の事態に。大報道陣が勝敗を注視していた。
「みんな負けるところを見に来ている。絶対に負けられないって、メラメラきてましたよね。でもグラウンドに出るとき、当時ヘッドコーチだった広野功さんから『ジョニーは幸せだね』と言われたんです。『これで勝ったら、これで負けたら…という大事な試合で投げられる。幸せだよ』って。幸せだ―というのが、僕の中で響いたんです」
鬼気迫る表情でジョニーは右腕を振った。だが、この夜の神戸は高温多湿の悪条件。人知れず、黒木の体には異変が生じていた。
「6回で脱水症状になって…。マウンドに上がってボールを投げると、全身にけいれんを起こしていることは分かっていました。だけど、連敗を何とか止めないといけないし」
これは大型連敗の最大の要因でもあったのだが、当時のロッテはWストッパーの河本育之、成本年秀をけがで欠き、終盤を託せるリリーフが不在だった。だからこそジョニーは首脳陣に異常を告げることなく、奮投するしかなかった。
8回を終え2安打1失点の快投。3―1とリードは2点。勝利の瞬間まで、あとアウト3つに迫っていた。
「ただ、本当は記憶があまりないんです。無我夢中で何も考えず、ひたすら1つのアウトを取る作業しかやっていなかったから」
9回。先頭のイチローを三振に封じた。記憶がおぼろげな中でも、背番号51の表情は脳裏に焼き付く。
「イチローがギロッとにらみ返してきたことを覚えています。普通は日本ワーストタイだったら、哀れな気持ちがあるじゃないですか。ただ、イチローには関係なかった」
走者を許すが、2死までたどりついた。あと一人。誰もが連敗地獄からの脱出を、信じて疑わなかった。(特別取材班)=敬称略=
◆伸びなかった視聴率 ロッテの連敗は10を超えた頃から世間の関心事となり、ロッテ・ファンの落語家・立川談志は本紙の取材に「勝負は勝つヤツがいれば負けるヤツもいる。この際、とことん負けたらいいんじゃない。負けを楽しめと言いたいね」とエールを送っている。一方、フジ系でゴールデンタイムに全国生中継された「七夕の悲劇」は関東地区で視聴率3.3%と、数字的にも惨敗に終わった。
(2)あと1球―切れろ、切れてくれ
↑1998年7月7日のオリックス戦 9回2死一塁からプリアムに同点ホームランを浴び、うなだれる黒木を慰めるロッテナイン
プロ野球ワーストタイの16連敗が、やっと止まる。ロッテベンチだけじゃない。GS神戸の球場全体が異様な興奮に包まれていた。98年7月7日、オリックス戦。先発した黒木の力投で、勝利まであと1人に追い込んだ。3―1と2点リードの9回2死一塁。プリアムが右打席へと向かう。ジョニーの闘争心は最高潮だった。
「勝てると思いましたね。ファンの思い、チームの思いを受け止めて、最高の投球をしていたので。2ストライクに追い込んだときは、『よし、勝った!』と思いましたよね」
カウントは1ボール2ストライク。女房役の福沢は内角高めにミットを構えた。暗く、長いトンネルを抜けるまで、あと1球―。
「元々、僕の生命線はインコース高めの直球だったので、そこに投げたんですが、ちょっと引っかかったんです。それが低めにいってしまって…」
この日、黒木が投じた139球目。ローボールヒッターのプリアムはわずかな制球ミスを逃さなかった。内角低めの146キロを捉える。強烈な打球が左翼ポール際へと飛んだ。切れろ。切れてくれ―。切実な願いは届かなかった。同点2ラン。ジョニーはマウンドへと膝から崩れ落ちた。内野陣が集まり、声を掛けるが、立ち上がれない。
「人はよく『アタマが真っ白になる』って言うじゃないですか。『いやいや、真っ白になるなんて、ないだろう』と思うかもしれませんが、打たれた瞬間、本当に真っ白になりました。『あ、終わった』と。その後は記憶がなくて。抱えられて降板するところは数日後に映像で見て、『オレはこういうふうになっていたんだ』って。現実に悔しくて涙が出るとか、そういう感情はなかったです」
試合は延長に突入したが、その時点でフランコや初芝を交代させていた。強打者を欠き、守護神不在のチームに勝ち目はなかった。延長12回。3番手の近藤が代打・広永にサヨナラ満塁弾を浴びた。プロ野球ワースト更新の17連敗。悪夢から覚めることはできなかった。
投球中から脱水症状に苦しんでいたジョニーはゲームセット直前、右肩と右肘に強いけいれんを起こしていた。右腕を上げたまま立花コーチらに抱えられ、GS神戸を後にした。そんな痛々しい写真が、翌日の紙面に掲載された。宿舎に戻り、ケアをすませて午前1時半。裕子夫人に電話した。
「かける言葉もないですよね。『負けた』と言って『大変だったね』みたいな感じです。難しいですね。27個目のアウトを取るのは」
悲しくてやりきれない、七夕の夜が終わった。(特別取材班)=敬称略=
▽1998年7月7日(グリーンスタジアム神戸=観衆2万)
ロ ッ テ
002001000000――3
000100002004x―7
オリックス(延長12回)
(ロ)黒木、●藤田、近藤―福沢、清水
(オ)木田、水尾、ウィン、〇鈴木―日高、三輪
[本]キャリオン8号(木田・6回)プリアム11号2ラン(黒木・9回)広永1号満塁(近藤・12回)
※ロッテはプロ野球ワースト記録を更新する17連敗(1分け挟む)
(3)機能しなかった「守護神・ジョニー」
↑1998年6月21日、日本ハム戦の9回1死二塁、田中幸雄(右)に逆転サヨナラ2ランを打たれぼう然とする黒木
連敗地獄に陥っている間、ロッテの首脳陣は指をくわえて見ていたわけではない。序盤から打つべき手は打ったが、止まらなかったのだ。
4連敗を喫した藤井寺での近鉄戦から一夜明け。6月19日、帰京する新幹線の車中だった。前夜に先発し、6回2失点ながらも敗戦投手となっていた黒木は、マネジャーに声を掛けられた。「監督が呼んでいます」。何の用事だろう? 監督の近藤昭仁の隣に座ると、こんな打診を受けた。「クロ、明日からストッパーでいってくれ」。連敗の要因である守護神の不在をエース格・黒木で補う。秘策だった。
近藤「ストッパーの条件の一つは、球に力があること。黒木しかいなかった。だから『とにかく連敗を止めてくれ。止まったらまた先発に戻すから、頼む』とね」
黒木「『ハイやります』と二つ返事です。チームは危機的な状況。勝利に貢献すべきと感じてました」
出番はすぐに訪れた。翌20日の東京D、日本ハム戦。2―0とリードした8回裏、中1日で黒木は救援した。だが1点差に迫られると、片岡篤史に逆転2点二塁打を浴びた。チームは6連敗。悪夢は続く。21日の同戦は壮絶な打撃戦と化した。10―9とロッテが1点リードの9回裏、1死二塁。終止符を打つべく、ジョニーは連夜の登板を果たした。ところが田中幸雄への直球は、サヨナラ2ランに。2夜連続の失敗。10―11での敗戦で7連敗―。「10点取っても勝てないのか…」。ベンチは絶望感で満たされた。
なぜ「守護神・ジョニー」は機能しなかったのか。
黒木「マウンドに上がった時、力んでしまうんですよね。野手が点を取って、守ってくれた。前に投げた投手には勝ち星がついている。それをオレが壊してはいけないという、強い思いがありすぎて…。打たれた日は、気づいたら朝でした。悔しくて寝てない。僕の性格上、引きずってしまうんです」
気迫全開で白星を重ねてきた「魂のエース」。その持ち味がストッパーとしては、裏目に出てしまった。
二度あることは三度ある。26日、千葉マリンでの西武戦。1―1の延長11回、黒木は1死三塁で救援したが、またも空回りした。2失点し、3度目のリリーフ失敗。チームは10連敗となった。試合後、近藤は先発への再転向をジョニーに指示した。
フロントが抑えの切り札として新助っ人・ウォーレンの獲得を発表したのは、その翌日のことだった。翌99年には30セーブを挙げ、パの最優秀救援投手に輝いた右腕。近藤の言葉がせつない。「1か月前に来とったら、今オレがこうして取材受けることは、なかったよな」(特別取材班)=敬称略=
◆98年のジョニー 悪夢の「ストッパー3連敗」、さらには勝利まであと1球から同点2ランを浴びた「七夕の悲劇」など試練が続いた25歳の黒木だったが、終わってみれば13勝(9敗)で最多勝。5割9分1厘で最高勝率と2冠に輝き、初タイトルを獲得した。防御率3・29はリーグ2位。球団最年少の1億円プレーヤーになった。
(4)倒れるまで、やらせて下さい
↑1998年7月18日、プロ野球連敗記録を塗り替え、報道陣に囲まれ球場を出るロッテ・近藤監督
負の連鎖は、もはや人知を超越した段階に来ている。ロッテ・ナインがそれを痛感する“事件”があった。
14連敗のまま迎えた7月4日、千葉マリンでのダイエー戦、その試合前だ。午後4時半。練習を終えたナインを待っていたのは、千葉神社の宮司だった。厳かな衣装に包まれた神主を前に、監督の近藤昭仁ら首脳陣、選手25人が頭を下げた。前代未聞ともいえる球場での厄払い。重光昭夫オーナー代行の発案だった。一塁ベンチにはお神酒や清めの塩がまかれた。エース格だった黒木知宏はこう振り返る。
「僕は先発の準備でランニングをしていて、みんなが集まっている中に遅れて入ったんですが、『そこまで来てしまったのか…』と思いましたね。もう神頼みになってしまっていると」
皮肉にもその夜、神が与えたのはさらなる試練だった。延長11回、5時間9分にも及ぶ死闘の末、15連敗を喫した。ある球団関係者は自嘲気味に話した。「ウチはお菓子の会社だもん、盛り塩よりも盛り砂糖の方が、効果があるかもなあ」
連敗地獄の中、近藤の心労はピークに達していた。解任報道がさらにストレスを生んだ。それでもロッテグループの総帥・重光武雄オーナーからの激励の電話に、こう答えたことを覚えている。「倒れるまで、やらせて下さい」―。
例えばよくある「休養」といった選択肢は、なかったのか。当時60歳。今日4月1日で78歳になる近藤は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「逃げる気は、さらさらなかった。とにかく誰一人として、手抜きをしている選手はいなかったからね。選手の批判だけは、絶対しないようにと思っていたよ」
遠征先で落ち込んでいる時、心が熱くなる電話があった。声の主は元巨人監督・藤田元司だった。近藤は89年から91年まで、ヘッドコーチとして第2次藤田政権を支えてきた。「無理するな。勝てないときは勝てない。選手をくさすなよ」。温かい言葉が心にしみた。
実はロッテに縁もゆかりもなかった近藤が指揮官に就任したのも、藤田のはからいだった。ロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された藤田が、95年の横浜監督を最後に現場から離れていた近藤へと、白羽の矢を立てたのだ。「藤田さんから頼まれたら、断れないじゃん。他の人からの頼みだったら、やらなかったよ」
勝利に見放され、不眠に苦しんでいた時、藤田が「1錠飲めば、グッスリ眠れる」と睡眠薬をくれたこともある。口にすると、本当に熟睡できてしまった。近藤は言う。「飲むのをやめたよ。怖くなっちゃって。大変な仕事だよな、監督は」(特別取材班)=敬称略=
◆謎の爆発騒ぎも 12連敗を喫した6月28日。千葉マリンでの近鉄戦では6点ビハインドの6回裏、三塁側2階内野席で時限発火装置付きの爆竹が破裂。「バババーン」との爆音が球場内にこだまし、1万5000人の観衆や両軍が騒然となる一幕もあった。幸いけが人はいなかったが、千葉西署の警察官2人が現場検証を行うなど、球場は不穏な空気に包まれた。
(5)泥沼から生まれたファンとの絆
↑連敗中も大きな横断幕を掲げて声援をおくる応援団
人は何かを失ったとき、何かを手にする。18連敗は球史に残る屈辱だった。それでも敗者である彼らが、暗黒の27日間を通じて勝ち取ったものがある。それは、ファンとの固い絆だ。
98年7月5日、千葉マリン。ロッテはダイエーに3―10で大敗した。16連敗となり、日本記録に並んだ。4併殺に投壊。暴動が起きても不思議ではない。だが、選手出入り口前に集った200人のファンは、違った。声を振り絞って、歌った。
俺たちの誇り 千葉マリーンズ どんな時も俺たちがついてるぜ 突っ走れ、勝利のために
歌声と手拍子は1時間、続いた。大合唱は監督である近藤昭仁の耳に入った。暗闇の真っただ中にいた指揮官はその瞬間、目を真っ赤に潤ませた。ありがとう―。
心が折れることなく声援を送るファンの光景は、夜のニュースでも報じられた。エース格だった黒木知宏は翌々日の先発が決まっていたため、試合途中で球場を去り、帰宅していた。テレビ画面越しに応援団の思いが伝わってくる。黒木の頬にもまた、熱い涙が滴り落ちた。
「実はファンに怖さがあったんです。『何も起きなければいい』と。だけどテレビをつけたら、これだけ負けているのに、ファンが一生懸命歌っている。これまで『ファンのために』と言っていたけど、本当にそういう思いだったのか…。自分がゲスい気持ちになってしまったんです。だから7月7日は、何が何でも連敗を止めなきゃならない。腕がもぎれてもいいと思って、マウンドに立ちました」
脱水症状に襲われ、全身けいれんを起こしつつ熱投した「七夕の悲劇」は、その2日後の出来事だった。
18連敗が止まった数日後。球宴休みを利用して、近藤はある人物を食事に誘った。私設応援団「ガルズ」の団長・石井努だった。現役監督がシーズン中、私設応援団と会食することは、極めて異例だ。近藤は振り返る。
「本当はファン全員を招待したかったんだ。どんな時も必死になって応援してくれた。あの声援が、どれほどありがたかったことか」
黒木は現在、日本ハムの1軍投手コーチとして若き投手陣を指導する。18年前の「あの時」を球界の後進に語り継いでいくこと。これも自らの使命だという。
「当事者ですから、僕には伝えないといけない義務がある。『財産になります』ではなく、財産にしないといけない。ゲームセットまで、勝負はゲタを履くまでは、分からない―と」
光を求め、もがいた夏。男たちの記憶は、決して色あせることはない。(今回の連載は加藤弘士、小谷真弥が取材、執筆を担当しました)=敬称略・終わり=
◆小宮山で始まり、小宮山で終わった ロッテが18連敗を脱したのは7月9日のオリックス戦(神戸)。先発したエース・小宮山悟が14安打されながらも140球を投げ、6失点完投。9―6で打ち勝った。18連敗は6月13日、同じオリックス戦(千葉マリン)での小宮山の敗戦から始まっていた。注目度の高さから試合はTBS系のゴールデンタイムに生放送。連敗脱出は中継終了後、ドラマ「ひとりぼっちの君に」の中でテロップにて報じられた。
【あの時・98年ロッテあぁ18連敗】
(1)みんな負けるところを見に来ている
(2)あと1球―切れろ、切れてくれ
(3)機能しなかった「守護神・ジョニー」
(4)倒れるまで、やらせて下さい
(5)泥沼から生まれたファンとの絆
以上 です。