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【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(5)「みんな世間が狭いんだよ」

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↑翌87年の3月11日には熱田球場でのオープン戦で落合と牛島が因縁の対決。落合が中前安打を放った

 オーナーのお墨付きをもらった中日の新監督・星野仙一は球団首脳と交換要員の検討を始めた。だが、ロッテから要求されたのはチームきっての人気投手、25歳の牛島和彦だった。

 「牛島は全く頭になかった。(ロッテには)『誰でもいい』と言っているんだから、想定しておかなくちゃならないんだけどな」

 移籍騒動勃発から1か月。進展しない交渉と過熱する取材攻勢に、さすがの落合博満も参っていた。86年12月2日の報知新聞では「今のオレには何が善で何が悪か、何が真意で何が誤報なのか、分からなくなった」と激白。家には中傷の手紙や電話も相次いだという。

 それでも6日には信子夫人とのデュエット曲「そんなふたりのラブソング」のレコーディングを敢行するなど、オレ流のペースは崩さなかった。

 12月22日、ロッテの松井球団社長が中日から打診があったことを明かすと、事態は一気に動く。そして、翌23日には両球団から落合と牛島プラス3選手(桑田茂投手、平沼定晴投手、上川誠二内野手)の「1対4トレード」が発表された。

 ただ、星野にはまだ仕事が残っていた。牛島の説得である。24日のクリスマスイブ、2人は深夜に星野の自宅で会った。「『辞めます』と言うから、オレは『辞めるんなら辞めろ』と。本当に辞められる怖さはなかったかだって? そんなの怖がっていたら、監督なんかできるかい!」

 腹はくくっていた。「お前が辞めるのなら、小松(辰雄)を出さなきゃいけない。今からオーストラリアにいる小松に連絡しなくちゃならないな。時間をやるから頭を冷やしてこい」

 翌25日、牛島は移籍を了承し、記者会見に臨んだ。星野は報道陣の後ろで会見を見守った。「“人間・星野”ならできなかった。オレは牛島をかわいがっていたから。だけどもオレは“監督・星野”なんだ。ここで情を絡めたら、オレの監督人生はおかしくなってしまうって、考えてたなあ」

 星野は振り返る。「あの時、落合が巨人に入っていたら、中日の監督になることもなかった。牛島も横浜の監督になった。(日本ハムに行った)大島とか、オレが獲ったり出したヤツは結構、監督になっている。まあ、そういうことですよ。今はトレードというものを各球団が怖がりすぎている。同一リーグへ出して活躍されたら…とか考えて。みんな世間が狭いんだよ」

 この大型トレードは、FA制度導入へのきっかけの一つとなった。そして、その制度を利用して落合が巨人に移籍するのは、それから7年後のことである。(この連載は仙道学、加藤弘士、戸田和彦が担当しました)=敬称略、おわり=

 ◆生中継された移籍会見 世紀のトレードは12月23日の午後10時過ぎに両球団から発表され、落合の会見はテレ朝系「ニュースステーション」で生中継された。会見が遅くなったのは信子夫人とのデュエット曲「そんなふたりのラブソング」のPRのため、文化放送の出演が決まっていたから。午後9時15分に収録を終えた落合は、すぐ四谷から西新宿のロッテ本社に向かった。中山大三郎氏の作詞作曲による同曲は翌年1月22日に発売予定だったが騒動に乗じて前倒しされ、12月27日に東芝EMIから緊急リリース。スマッシュヒットとなった。

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