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【あの時・落合博満1対4トレードの衝撃】(3)サバ読んで観客700人…悲惨だった「セパ格差」

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↑86年9月19日、両リーグトップの40号本塁打を放ったロッテの落合(捕手は日本ハム・田村)

 12球団屈指の熱さを誇るマリーンズファン。今や応援パフォーマンス自体が名物になるほどだ。ZOZOの右翼スタンドには常に熱気が渦巻くが、30年前の川崎球場はどうだったのか。86年の本紙ロッテ担当だった北沢正人(75)は、外野席のこんな風景を目撃している。

 「いつも観客動員は芳しくなかったけど、その日は特に少なかった。それで記者席から数えてみたら、右翼ポールから左翼ポールの間には23人しかいなかったんですよ」

 当時は記者席の方が、はるかに人口密度が高かったという。「さすがに肩を落としていたら、球団広報が入ってきて、『本日の観衆は700人でお願いします』って…」。思い切りサバを読んでの700人も悲惨だ。担当記者もガックリくるが、グラウンドでプレーしている選手はもっとさみしい思いをしていた。

 落合の移籍はあくまでも「高い評価=年俸」を求めてのことであり、慕っていた稲尾監督を解任した球団への不信がそのきっかけになったのだろうが「セ・パ格差」への思いもあったかもしれない。その頃、「パの野球をバカにされないようにするには、オレがセに行って3冠王を取るのが一番だろ」とも語っている。

 ちなみに落合の視野に入っていたのはセ・リーグだけではない。信子夫人は言う。「ロッテ時代にはメジャーからも声がかかっていたのよ。『オレがアメリカに行ったら、お前はどうする?』って聞くから、地の果てまでついて行くと答えたの。でも、この人の一番悪いところなんだけど、食べ物の好き嫌いがね。それで『オレ行かないよ』と。じゃあ、いいかって泡のごとく消えちゃった」。

 さて、移籍騒動の勃発から2週間余りが経過した11月20日。有藤監督が派手にぶちあげた。「これは仮定の話だが、巨人とのトレードが1対3になるなら全員投手を、それも若くて将来性のある投手を要求する。江川と槙原、桑田をくれないかな。落合の代わりになる野手はバースくらいだ。巨人にはいない」

 このあまりに現実味のないコメントは、何を意味していたのか。その2日後、22日付の報知新聞は「巨人宣言 落合取り凍結」と1面で報じた。そして―。

 「どうしても、この選手が欲しい。そのためならどんな犠牲でも払う。落合の時は、そういう感じだったね」。いよいよ39歳の青年指揮官・星野仙一が動き出した。(特別取材班)=敬称略=

 ◆落合騒動の余波 当時の報知新聞では交換要員として報じられた巨人・斎藤雅樹投手(現2軍監督)の談話が紹介されている。「トレード要員として、ボクの名前が出てきたでしょ。ある新聞で『もし行けと言われたら?』と聞かれて『仕方ないでしょう』と答えたら『移籍OK』みたいに書かれてしまった。あれはマイッタですよ。両親も『決まったら決まったで仕方ないよ』と変ななぐさめ方をするし…。(落合の中日入団)会見を生中継したニュースステーションは、かじりついて見ちゃった。家中みんな拍手ですよ」

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