↑サブローの引退試合を観戦した阿部
巨人・阿部慎之助捕手(37)が25日、“サブ流”の継承を誓った。この日は、サブローの引退試合をQVCで観戦。05、10年にロッテの4番として下克上日本一を成し遂げた男のすごさは、打線を乗せられる点と分析。阿部も逆転日本一へ「つなぎの4番」として打線に火をつける。
改めて、偉大さを実感した。ネット裏から見た超満員のQVCに、阿部は息をのんだ。「スターが辞める時って、こんなに人が集まるもんなんだな…」。11年に巨人のチームメートとして一緒に戦ったサブローの引退試合。内海、山口、長野、坂本、クルーズとともに駆けつけると、すさまじい熱気に圧倒された。
そんな光景を目の当たりにし、敵として攻略に手を焼いた日々を思い出した。07年6月5日の対戦(千葉マリン)では4安打3打点と打ち込まれ、翌6日(同)は3安打5打点。2試合とも打ち負け、チームは連敗した。「交流戦でコテンパンに打たれたな。連続で猛打賞とかされて、全然勝てなかった」と振り返った。
打つことで打線全体を乗せるところが、サブローの恐ろしさだという。05、10年にはロッテがポストシーズンを勝ち抜き、日本一まで上り詰めた。その時も、サブローが「つなぎの4番」として打線を機能させていた。阿部も巨人を下克上日本一へ導くためには、安打量産の“サブ流”がヒントになると考えている。
昨季のCSはバットを指2本分ほど短く握り、出塁重視の打撃に切り替えて臨んだ。ヤクルトとの最終S(神宮)では4戦連続マルチ安打で打率6割8分8厘をマーク。「今年もそういうスタンスで行くと思うよ」と明かしていたように、すでに軽打へシフトしつつある。8月26日のDeNA戦(横浜)で2発を放って以降は、22試合連続ノーアーチ。一方で、一時は2割台まで落ちた打率を、3割1分2厘まで押し上げてきた。
「サブローさんは野球に対して超まじめ。(年下の)俺にもよく聞いてきた。すごく貪欲な人だった」と阿部。手本にすべき先輩の姿をしっかり目に焼き付け、ラストスパートへの活力を得た。(尾形 圭亮)
◆“下克上4番”サブローめも 俊足巧打の選手ながら、05年8月にバレンタイン監督がプロ入り後初めて4番に起用し、新タイプの「つなぎの4番」に定着。同年、レギュラーシーズン2位(当時の規定ではプレーオフ勝者がリーグ優勝)からの31年ぶり日本一に貢献した。10年シーズンでは主に6番だったが、ポストシーズンでは全試合で4番に座り、3位から「史上最大の下克上」を達成。05、10年のプレーオフ、CS、日本シリーズで打点を挙げた試合は9勝1分け。“下克上請負人”とも言える活躍を見せた。
巨人・阿部慎之助捕手(37)が25日、“サブ流”の継承を誓った。この日は、サブローの引退試合をQVCで観戦。05、10年にロッテの4番として下克上日本一を成し遂げた男のすごさは、打線を乗せられる点と分析。阿部も逆転日本一へ「つなぎの4番」として打線に火をつける。
改めて、偉大さを実感した。ネット裏から見た超満員のQVCに、阿部は息をのんだ。「スターが辞める時って、こんなに人が集まるもんなんだな…」。11年に巨人のチームメートとして一緒に戦ったサブローの引退試合。内海、山口、長野、坂本、クルーズとともに駆けつけると、すさまじい熱気に圧倒された。
そんな光景を目の当たりにし、敵として攻略に手を焼いた日々を思い出した。07年6月5日の対戦(千葉マリン)では4安打3打点と打ち込まれ、翌6日(同)は3安打5打点。2試合とも打ち負け、チームは連敗した。「交流戦でコテンパンに打たれたな。連続で猛打賞とかされて、全然勝てなかった」と振り返った。
打つことで打線全体を乗せるところが、サブローの恐ろしさだという。05、10年にはロッテがポストシーズンを勝ち抜き、日本一まで上り詰めた。その時も、サブローが「つなぎの4番」として打線を機能させていた。阿部も巨人を下克上日本一へ導くためには、安打量産の“サブ流”がヒントになると考えている。
昨季のCSはバットを指2本分ほど短く握り、出塁重視の打撃に切り替えて臨んだ。ヤクルトとの最終S(神宮)では4戦連続マルチ安打で打率6割8分8厘をマーク。「今年もそういうスタンスで行くと思うよ」と明かしていたように、すでに軽打へシフトしつつある。8月26日のDeNA戦(横浜)で2発を放って以降は、22試合連続ノーアーチ。一方で、一時は2割台まで落ちた打率を、3割1分2厘まで押し上げてきた。
「サブローさんは野球に対して超まじめ。(年下の)俺にもよく聞いてきた。すごく貪欲な人だった」と阿部。手本にすべき先輩の姿をしっかり目に焼き付け、ラストスパートへの活力を得た。(尾形 圭亮)
◆“下克上4番”サブローめも 俊足巧打の選手ながら、05年8月にバレンタイン監督がプロ入り後初めて4番に起用し、新タイプの「つなぎの4番」に定着。同年、レギュラーシーズン2位(当時の規定ではプレーオフ勝者がリーグ優勝)からの31年ぶり日本一に貢献した。10年シーズンでは主に6番だったが、ポストシーズンでは全試合で4番に座り、3位から「史上最大の下克上」を達成。05、10年のプレーオフ、CS、日本シリーズで打点を挙げた試合は9勝1分け。“下克上請負人”とも言える活躍を見せた。