近鉄のホーム最終戦でサヨナラ打を放ったバットを手にする星野おさむさん
近鉄最終試合 延長11回1死二塁、右翼線へサヨナラ打を放った星野おさむ(中、62番)は近藤一樹(左、65番)とハイタッチ
近鉄最終試合 延長11回1死二塁、右翼線へサヨナラ打を放つ星野おさむ
ボディープリントを施したトラックと星野おさむさん
阪神時代、横浜戦で代打逆転満塁弾を放った星野さんを伝えるスポーツ報知(1996年6月8日付)
阪神、近鉄、楽天で17年間プレーした星野おさむさん(47)は現在、地元・埼玉の運送会社「清水運輸」(清水英次社長)で取締役を務めている。星野さんは2004年限りで消滅した「近鉄バファローズ」の最後の打者で、勝負強い打撃で、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)での本拠地最終戦ではサヨナラ打を放つ活躍を見せた。現役時代の思い出と、今後の夢を語った。
最後の場面は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。2004年9月24日の大阪ドームの西武戦、2―2の同点で迎えた延長11回だった。1死二塁で、星野さんが放った糸を引くような打球が、右翼線で弾む。二塁走者の大村直之が悠々と生還するサヨナラ二塁打となり、これ以上ない劇的な形で本拠地最終戦を飾った。
ヒーローとなった星野さんは「自分で決めてやる気持ち? ゼロですよ。延長もずっと続けばいいのになと思って守っていたくらいでしたから」。1死から1番・大村が右中間二塁打で出塁。途中出場で2番に入っていた星野さんは、打席に向かいながら冷静にイメージしていたことがあったという。
星野さんの次打者は選手会長・礒部公一だった。「神様がいて『最後は礒部に回るんだ』って勝手に思って。だったら俺、ここで変なことしちゃまずいよねって…」。オリックスとの合併計画が浮上して以来、礒部は選手会長として、労使交渉や署名活動など先頭に立ち奔走していた。頑張ってきた生え抜きの礒部が決めるべきだと“勝手”に展開を予想した星野さんが選択したのはドラッグバントだった。
「大村が三塁に行けば礒部が何とかするだろうと思って」。だが西武の守護神・森慎二さん(昨年6月に逝去)が投じた初球を一塁線にファウル、2球目を空振りし追い込まれてしまう。「慎二がすごいフォークを投げるから送れなくて。何だよって。今思えば慎二も打たれないように必死に投げていたんだろうけど…」。サインは出ていない。ベンチはざわつきスタンドからはヤジが飛んだ。「三振したら後ろが打ちづらくなるじゃないですか」。森慎二さんが投じた高めに外し気味の3球目をたたいた。「右にゴロを打とうと思って。そうしたら角度がついちゃってライト線に飛んだ。大村が三塁に止まれなくて(ホームに)帰るしかない当たり。みんなが来たから万歳はしたけど…」。満員のスタンドからは地鳴りのような歓声が起こり、二塁ベース付近でナインにもみくちゃにされた。手荒い祝福を受け次々に抱擁されると自然に涙があふれた。みんなが泣いていた。
その3日後、ヤフーBBスタジアム(現・ほっともっと神戸)でのオリックスとの最終戦。9回2死から代打で登場し二ゴロに倒れ、正真正銘の最後の打者に。「最後のバッターでもいいからしっかりと振ろうと思っていました。(監督の)梨田さんの演出だったんですかね」。
激動のシーズン、55年間続いた球団の“幕引き役”を務めた星野さんは「ストライキがあったり色々な思いを持ちながらプレーする中で、近鉄ファンの温かさも感じたし、外様でしたけど、近鉄への愛情がふくらみました。あのときには日に日にみんなの会話、コミュニケーションが増えて、いいチームだなと思ってプレーしていました」。
当時プロ16年生の34歳。阪神から移籍して3年目だった。「阪神の時は何となくチャンスをもらえていたけど、近鉄では自分で頑張らないと試合に出られない」。代打で、そして守備からと途中出場が多かった星野さん。移籍を機に考え方を変えた。試合前の準備時間も長くなり、ベンチでも試合展開を予想し観察することが増えた。「元々、癖を見抜くのは得意だったんですが、レギュラーの選手だけでなく、敵味方問わず観察するようになりました。選手の肌つやだったり、雰囲気を感じ取るように…。球場全体を見られるようになったし、客観的に自分を見れるようになりました」。
バッティングの意識も変えた。「ボールに対して素直に行けるようになった」。右翼から左翼に強い浜風が吹き左打者に不利とされる甲子園とは違い、自然の影響を受けない大阪ドームに本拠地が変わった。「甲子園では(打球の)方向によっては安打が安打でなくなることもあったし、意識して細工してたんですね、(バットを出す)角度とか。頭でっかちだったんですかね。(近鉄に来て)しっかり打てば越えてくれると思うようになって、余裕を持って打席に入れるようになりました」。
展開を読む視点とバッティングへの心構え。ホーム最終戦で描いた“筋書き”こそ外れたが、ラストゲームのサヨナラヒットは実直に野球と向き合ってきた星野さんに、神様がくれたプレゼントだったのかもしれない。
その後、楽天で1年プレーし、現役引退すると指導者の道に進んだ。5年間の楽天コーチを経て、独立リーグ・四国IL愛媛の監督を3年間務めた。人数が少ない独立リーグでは裏方の役割はもちろん、チーム運営やスポンサー探しも経験した。BCリーグ参入を表明した武蔵の設立準備アドバイザーを1年間務め、15年に初代監督に就任も5月に退団しユニホームを脱いだ。直後に地元・埼玉を中心に展開している運送会社「清水運輸」に勤務し、現在は取締役を務めている。「社長が高校(福岡高)野球部の2歳上で(武蔵ヒート)ベアーズ立ち上げの時にスポンサーになって頂いた。その縁もあって入社しました。今までの経験を生かして、地域貢献活動が出来ればと思っています」。
会社の価値を高めるために、講演活動のほか、会社ホームページの刷新などを手がけた。また、ラッピングバスのように、トラックのサイドパネルにデザインを施す「ボディープリント」を積極的に導入。武蔵で球団設立に携わった際に、埼玉の各自治体と交流を持っていた強みを生かし、自治体や公共団体に働きかけた。鮮やかな彩りで自治体のPRが描かれたトラックが走ることで、会社は地域貢献、自治体は宣伝が出来る仕組みだ。すでに同社グループの所有する約300台のトラックの3分の2近くが様々なプリントを施し、走り回っている。
星野さんが最近、思い起こすのは18歳のルーキー時代のことだ。当時2軍の本拠地・阪神浜田球場で居残り特守など永尾泰憲コーチに付きっきりで指導を受けた。「毎日怒られてばかりでした。野球の技術よりも言葉遣いや人への態度とかですね。口癖は『野球バカじゃいかん』でしたね」。また、阪神では選手で、楽天ではコーチで師事した野村克也さんの言葉も思い出す。「野村さんは『野球を引いてゼロになるような人間じゃいかん』と良くおっしゃっていた。永尾さんを始め、本当に私は人に恵まれたと思います」。野球に打ち込みながらも社会人としての礼儀を教えてくれた球界の先人への感謝の思いを口にした。
今ではその言葉が本当に身にしみる。「まずは自分の出来ることで会社に恩返ししなければいけない。そして、将来は埼玉のスポーツ界で何かをしたいですね。子供たちのために出来ることをやっていきたいという夢は持っています」。関西、東北、四国を経て戻って来た地元・埼玉。今までの経験を地元に還元したい―。“いてまえ軍団”の掉尾を飾った星野さんは、今でも終わることない人生の“延長戦”を戦っている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆星野 修(ほしの・おさむ)1970年5月4日、埼玉生まれ。47歳。埼玉・福岡高ではエースとして3年夏県8強。88年オフにドラフト外で阪神に入団。93年に1軍初出場。97年には自己最多の117試合に出場。2001年オフに戦力外通告を受け02年に近鉄に移籍。登録名を「星野おさむ」に変更する。03年には111試合出場で12本塁打を記録した。04年オフに分配ドラフトで新規参入の楽天入り。05年限りで現役を引退し、06年から10年まで楽天コーチ。11年から3年間、四国IL・愛媛の監督を務める。14年にBCリーグ参入予定の武蔵のアドバイザーに就任。15年に初代監督に就任したが5月に退団した。通算738試合、1537打数387安打、155打点、打率2割5分2厘、24本塁打。現役時代のサイズは182センチ、80キロ。右投左打。
◆近鉄バファローズ 近畿日本鉄道を親会社として1949年、2リーグ分立を機に球団を創設、年末に発足したパ・リーグに加盟した。当初のチーム名は近鉄沿線、伊勢志摩地方の名産品・真珠にちなんでパールス。59年に猛牛とあだ名された千葉茂氏が監督に就任。チーム名をバファローに改め62年からバファローズ。長らく低迷していたが79年に西本幸雄監督の下でリーグ初優勝。97年に本拠地を藤井寺から大阪ドームに移し99年から「大阪近鉄バファローズ」と呼称を変更。79、80年、89年、2001年と4度リーグ優勝をしているが、日本一を達成できずに04年を限りにオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅した。球団シンボルマークは岡本太郎氏のデザイン。通算7252試合、3261勝3720敗271分、勝率4割6分7厘。
近鉄最終試合 延長11回1死二塁、右翼線へサヨナラ打を放った星野おさむ(中、62番)は近藤一樹(左、65番)とハイタッチ
近鉄最終試合 延長11回1死二塁、右翼線へサヨナラ打を放つ星野おさむ
ボディープリントを施したトラックと星野おさむさん
阪神時代、横浜戦で代打逆転満塁弾を放った星野さんを伝えるスポーツ報知(1996年6月8日付)
阪神、近鉄、楽天で17年間プレーした星野おさむさん(47)は現在、地元・埼玉の運送会社「清水運輸」(清水英次社長)で取締役を務めている。星野さんは2004年限りで消滅した「近鉄バファローズ」の最後の打者で、勝負強い打撃で、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)での本拠地最終戦ではサヨナラ打を放つ活躍を見せた。現役時代の思い出と、今後の夢を語った。
最後の場面は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。2004年9月24日の大阪ドームの西武戦、2―2の同点で迎えた延長11回だった。1死二塁で、星野さんが放った糸を引くような打球が、右翼線で弾む。二塁走者の大村直之が悠々と生還するサヨナラ二塁打となり、これ以上ない劇的な形で本拠地最終戦を飾った。
ヒーローとなった星野さんは「自分で決めてやる気持ち? ゼロですよ。延長もずっと続けばいいのになと思って守っていたくらいでしたから」。1死から1番・大村が右中間二塁打で出塁。途中出場で2番に入っていた星野さんは、打席に向かいながら冷静にイメージしていたことがあったという。
星野さんの次打者は選手会長・礒部公一だった。「神様がいて『最後は礒部に回るんだ』って勝手に思って。だったら俺、ここで変なことしちゃまずいよねって…」。オリックスとの合併計画が浮上して以来、礒部は選手会長として、労使交渉や署名活動など先頭に立ち奔走していた。頑張ってきた生え抜きの礒部が決めるべきだと“勝手”に展開を予想した星野さんが選択したのはドラッグバントだった。
「大村が三塁に行けば礒部が何とかするだろうと思って」。だが西武の守護神・森慎二さん(昨年6月に逝去)が投じた初球を一塁線にファウル、2球目を空振りし追い込まれてしまう。「慎二がすごいフォークを投げるから送れなくて。何だよって。今思えば慎二も打たれないように必死に投げていたんだろうけど…」。サインは出ていない。ベンチはざわつきスタンドからはヤジが飛んだ。「三振したら後ろが打ちづらくなるじゃないですか」。森慎二さんが投じた高めに外し気味の3球目をたたいた。「右にゴロを打とうと思って。そうしたら角度がついちゃってライト線に飛んだ。大村が三塁に止まれなくて(ホームに)帰るしかない当たり。みんなが来たから万歳はしたけど…」。満員のスタンドからは地鳴りのような歓声が起こり、二塁ベース付近でナインにもみくちゃにされた。手荒い祝福を受け次々に抱擁されると自然に涙があふれた。みんなが泣いていた。
その3日後、ヤフーBBスタジアム(現・ほっともっと神戸)でのオリックスとの最終戦。9回2死から代打で登場し二ゴロに倒れ、正真正銘の最後の打者に。「最後のバッターでもいいからしっかりと振ろうと思っていました。(監督の)梨田さんの演出だったんですかね」。
激動のシーズン、55年間続いた球団の“幕引き役”を務めた星野さんは「ストライキがあったり色々な思いを持ちながらプレーする中で、近鉄ファンの温かさも感じたし、外様でしたけど、近鉄への愛情がふくらみました。あのときには日に日にみんなの会話、コミュニケーションが増えて、いいチームだなと思ってプレーしていました」。
当時プロ16年生の34歳。阪神から移籍して3年目だった。「阪神の時は何となくチャンスをもらえていたけど、近鉄では自分で頑張らないと試合に出られない」。代打で、そして守備からと途中出場が多かった星野さん。移籍を機に考え方を変えた。試合前の準備時間も長くなり、ベンチでも試合展開を予想し観察することが増えた。「元々、癖を見抜くのは得意だったんですが、レギュラーの選手だけでなく、敵味方問わず観察するようになりました。選手の肌つやだったり、雰囲気を感じ取るように…。球場全体を見られるようになったし、客観的に自分を見れるようになりました」。
バッティングの意識も変えた。「ボールに対して素直に行けるようになった」。右翼から左翼に強い浜風が吹き左打者に不利とされる甲子園とは違い、自然の影響を受けない大阪ドームに本拠地が変わった。「甲子園では(打球の)方向によっては安打が安打でなくなることもあったし、意識して細工してたんですね、(バットを出す)角度とか。頭でっかちだったんですかね。(近鉄に来て)しっかり打てば越えてくれると思うようになって、余裕を持って打席に入れるようになりました」。
展開を読む視点とバッティングへの心構え。ホーム最終戦で描いた“筋書き”こそ外れたが、ラストゲームのサヨナラヒットは実直に野球と向き合ってきた星野さんに、神様がくれたプレゼントだったのかもしれない。
その後、楽天で1年プレーし、現役引退すると指導者の道に進んだ。5年間の楽天コーチを経て、独立リーグ・四国IL愛媛の監督を3年間務めた。人数が少ない独立リーグでは裏方の役割はもちろん、チーム運営やスポンサー探しも経験した。BCリーグ参入を表明した武蔵の設立準備アドバイザーを1年間務め、15年に初代監督に就任も5月に退団しユニホームを脱いだ。直後に地元・埼玉を中心に展開している運送会社「清水運輸」に勤務し、現在は取締役を務めている。「社長が高校(福岡高)野球部の2歳上で(武蔵ヒート)ベアーズ立ち上げの時にスポンサーになって頂いた。その縁もあって入社しました。今までの経験を生かして、地域貢献活動が出来ればと思っています」。
会社の価値を高めるために、講演活動のほか、会社ホームページの刷新などを手がけた。また、ラッピングバスのように、トラックのサイドパネルにデザインを施す「ボディープリント」を積極的に導入。武蔵で球団設立に携わった際に、埼玉の各自治体と交流を持っていた強みを生かし、自治体や公共団体に働きかけた。鮮やかな彩りで自治体のPRが描かれたトラックが走ることで、会社は地域貢献、自治体は宣伝が出来る仕組みだ。すでに同社グループの所有する約300台のトラックの3分の2近くが様々なプリントを施し、走り回っている。
星野さんが最近、思い起こすのは18歳のルーキー時代のことだ。当時2軍の本拠地・阪神浜田球場で居残り特守など永尾泰憲コーチに付きっきりで指導を受けた。「毎日怒られてばかりでした。野球の技術よりも言葉遣いや人への態度とかですね。口癖は『野球バカじゃいかん』でしたね」。また、阪神では選手で、楽天ではコーチで師事した野村克也さんの言葉も思い出す。「野村さんは『野球を引いてゼロになるような人間じゃいかん』と良くおっしゃっていた。永尾さんを始め、本当に私は人に恵まれたと思います」。野球に打ち込みながらも社会人としての礼儀を教えてくれた球界の先人への感謝の思いを口にした。
今ではその言葉が本当に身にしみる。「まずは自分の出来ることで会社に恩返ししなければいけない。そして、将来は埼玉のスポーツ界で何かをしたいですね。子供たちのために出来ることをやっていきたいという夢は持っています」。関西、東北、四国を経て戻って来た地元・埼玉。今までの経験を地元に還元したい―。“いてまえ軍団”の掉尾を飾った星野さんは、今でも終わることない人生の“延長戦”を戦っている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆星野 修(ほしの・おさむ)1970年5月4日、埼玉生まれ。47歳。埼玉・福岡高ではエースとして3年夏県8強。88年オフにドラフト外で阪神に入団。93年に1軍初出場。97年には自己最多の117試合に出場。2001年オフに戦力外通告を受け02年に近鉄に移籍。登録名を「星野おさむ」に変更する。03年には111試合出場で12本塁打を記録した。04年オフに分配ドラフトで新規参入の楽天入り。05年限りで現役を引退し、06年から10年まで楽天コーチ。11年から3年間、四国IL・愛媛の監督を務める。14年にBCリーグ参入予定の武蔵のアドバイザーに就任。15年に初代監督に就任したが5月に退団した。通算738試合、1537打数387安打、155打点、打率2割5分2厘、24本塁打。現役時代のサイズは182センチ、80キロ。右投左打。
◆近鉄バファローズ 近畿日本鉄道を親会社として1949年、2リーグ分立を機に球団を創設、年末に発足したパ・リーグに加盟した。当初のチーム名は近鉄沿線、伊勢志摩地方の名産品・真珠にちなんでパールス。59年に猛牛とあだ名された千葉茂氏が監督に就任。チーム名をバファローに改め62年からバファローズ。長らく低迷していたが79年に西本幸雄監督の下でリーグ初優勝。97年に本拠地を藤井寺から大阪ドームに移し99年から「大阪近鉄バファローズ」と呼称を変更。79、80年、89年、2001年と4度リーグ優勝をしているが、日本一を達成できずに04年を限りにオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅した。球団シンボルマークは岡本太郎氏のデザイン。通算7252試合、3261勝3720敗271分、勝率4割6分7厘。