農家に転身した仁村薫さん。トラクターを乗りこなす姿もさまになっている
丹精込めて米作りしている仁村薫さん
仁村薫さんの中日への“移籍”を一面で報じる報知新聞(1987年12月8日付)
仁村薫さんが思い出に残るプレーとしてあげた1988年7月12日の大洋戦(ナゴヤ球場)代打で逆転サヨナラ打を放ち喜ぶ仁村さん 星野監督通算100勝の節目だった
1988年、リーグ優勝し胴上げされる中日・星野監督
勝負に挑む舞台が変わり6年目を迎えた。元巨人、中日の仁村薫さん(58)は、現在、埼玉・川越で米農家として自然と向き合い、格闘している。巨人、中日、楽天でコーチを歴任。かつて「トーキングコーチ」と呼ばれ、若手の育成に心血を注いだ男は、米作りに情熱を傾けている。
「ふと14年間の指導者人生を考えるね。大自然の中で、話しかけても(答えが)返ってこない相手と向き合って。生き物は正直だよ。情熱を傾けても大自然には勝てない。つくづく人間はちっぽけなものだと、その中で生かされていると感じるね」。仁村さんは、それでも稲にむかって、土にむかって“問わず語り”を続けている。
実家は380年前から川越で暮らす農家で、長男の仁村さんは17代目の当主になる。広大な敷地を分断するように、JR川越線が走っている。「心のどこかにいずれは継がなきゃいけないとは考えていた」。楽天コーチを退任しユニホームを脱いだ2012年末から家業を継ぐ形で本格的に農業に取り組んでいる。
最初に始めたのが土壌改良だ。検査して出た成分を分析する。農薬を極力減らすことでシラサギが訪れ、タニシが住むようになった。稲にとって快適な環境は、他の生物にも同じ。どこからか種が舞い込みヒエなどの雑草が生える。あっという間に成長する雑草をこまめに抜く作業も必要になる。コツコツと雑草を抜くことで左手がけんしょう炎になった。
現在、2町4反(約7200坪)の田んぼでキヌヒカリを栽培する。米がおいしくなるためには昼夜の寒暖差が必要と言われる。米どころといわれる東北、新潟と違い、川越は昼夜の気温差が少ない。寒暖の差を作り出すために3、4日に1回水を入れ替える。温まった水を抜き、冷たい水を流し込む。水はけや流れ方も1反ごとにすべて違うため、細かい観察眼も必要だ。「うまくいっている人の田んぼ行ってどのくらいの深さがいいか見て“盗む”こともある」。後はひたすらメモを取る。手帳にはその日行った作業や気がついたことがぎっしりと書き込まれている。「王さんからメモを取れと言われて習慣になった」。野球手帳から農業手帳に変わったが、巨人に入団して3年目、1軍に上がったときの指揮官・王貞治さんからの助言が今に生きている。
巨人での87年のオフに戦力外通告を受けた。その後、王監督から直々に電話をもらった。「残念だが今回、こういう決断をしたから」。律義な行動に頭が下がった。「その後、(中日コーチ時代の1999年に)オープン戦でお会いして、『日本シリーズで(対戦)出来たらいいな』と言ってもらえた。その年に対戦できた。そんな話ができたのもあの電話があったから。本当に出会いに感謝している」。
今年1月4日に70歳で亡くなった闘将・星野仙一さんとの思い出も尽きない。巨人から戦力外を受け、誘ってもらった中日の指揮官が星野さんだった。弟・徹さん(現・楽天スカウト部副部長)と同じチームでプレーする機会に恵まれた。「星野さんは厳しかったね。打っても『何で仁村の兄貴が打てるのに、他の選手が打てないんだ』って。褒められたことはなかったな」。それでも88年7月12日の大洋(現DeNA)戦では「ストレートだけには負けるな」の指揮官の助言に応え、守護神・中山から逆転サヨナラ打を放ち、星野監督の通算100勝に貢献した。喜ぶ顔がそこにあった。
引退した90年の「10・1」本拠地最終戦で「2番・中堅」でスタメン出場した。「引退を報告したら、その後に結構先発で使ってくれてね」。巨人戦で0―1のビハインドの8回無死一塁で、送りバントを決めた。3番、仁村弟が左前安打で続き、4番・落合に逆転3ランが飛び出し、山本昌が入団7年目で初めて2ケタ勝利を挙げた。「落合さんが『今日は俺じゃないよ。“あんちゃん”と“まさ”だろ』って、ヒーローインタビューを譲ってくれた」。いぶし銀のような輝きを見せた現役時代には、いつも闘将の姿があった。
星野さんとの縁はまだ続く。巨人の2軍コーチ退団が決まった97年オフに、連絡をもらった。「帰ってこい。徹を2軍監督にするから、支えろ」。2軍野手総合コーチとして、ロッテで現役引退したばかりの弟・徹監督の下で荒木、井端、森野、福留らの若手を徹底的にしごいた。話し出すと止まらない性格に福留からは「トーキングコーチ」と呼ばれた。星野さんからは「2軍は教育の場。先生が生徒のことを知っているように、選手については全員、性格から何まで分かっていろ」と言われたが、細かい指示などはなく、ほとんど任せてくれた。仁村さんが野球以外のことを学ばせるために、若手を舞台観劇やピアノリサイタルに連れ出しても何も言わなかった。キャンプ中に若手をゴルフのショートコースに連れて行ったコーチにも「何か考えがあるんだろう」と怒ることはなかったという。
「情熱と根気だよね」。星野監督の下でコーチとして得たことは、現在の仕事でも重なる部分がある。夫人が作ってくれた“にぎりめし”を持って朝、家を出ると、暗くなるまで田んぼにいる。愛情を注ぎ、じっくりと稲を見守り、ほんの少しの変化を見逃さない。「情報を収集して戦略を立てる。あとは実行、決断。すべて責任を取る覚悟でやる」。収穫時期をいつにするか。天気など自然環境を知り、予測して方針を立てる。同じ田んぼでも中央と外側では育ち方が違い、決断が早くても遅くても品質が変わる。また収穫した後の乾燥でもすぐ食べる分は水分量を多めにするなど、こまやかな配慮が必要だ。「面白いまでいかない。必死ですよ」と言いながらも全身全霊をかけている。
そのお陰もあり等級検査で「1等米」と認められた。収穫した米は「仁村薫のまごころ米」として販売。読売新聞の販売店や、ナゴヤドーム内のレストランにも卸している。昨年は夏の長雨の影響で受粉が少なかったためか、例年と比べ30俵(約1800キロ)も収穫が少なかった。人事を尽くしても報われないこともある。それが自然でもある。「忘れて 捨てて 許す 淡々と」。親交のある仙台・慈眼寺の僧侶で、千日回峰行を行った大阿闍梨・塩沼亮潤さんから送られた言葉を座右の銘に向き合っている。
星野さんとは昨年12月1に大阪で行われた「野球殿堂入りを祝う会」で会ったのが最後だった。控室で星野さんがほほ笑んで言った言葉が忘れられない。「仁村んとこの餅はうまいんだよな~」。毎年末、自ら育てたもち米で餅つきした餅を送っていた。
自宅にはその時、撮影したツーショット写真が飾られている。スマートホンの待ち受け画面は星野さんと、参謀役として支えた島野さんだ。秩父連峰から吹きつける風に時折、恩師の“気配”を感じて、仁村さんは日々、問わず語りを続けている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆仁村 薫(にむら・かおる)1959年5月9日、埼玉・川越生まれ。58歳。川越商から早大に進み3年春からエースでリーグ通算17勝(10敗)をマーク。4年の日米大学野球は代打で本塁打を放ち優勝に貢献。81年ドラフト6位で巨人に入団。3年目に外野手に転向する。87年に戦力外通告を受け、88年に中日に移籍。弟・徹との兄弟選手として注目を集めた。90年に現役引退。95年から巨人の2軍外野守備コーチに就任、98年から中日で2軍野手総合コーチを手始めに、1軍外野守備コーチ、フィジカルコーチなどを歴任。2003年に1年間離れるが、04年から07年まで中日でコーチを務める。11年に楽天コーチとして2軍監督、野手総合巡回コーチを務め12年オフに退団。プロ通算396試合、394打数91安打、打率2割3分1厘。15本塁打、60打点。現役当時は175センチ、75キロ。右投右打。
丹精込めて米作りしている仁村薫さん
仁村薫さんの中日への“移籍”を一面で報じる報知新聞(1987年12月8日付)
仁村薫さんが思い出に残るプレーとしてあげた1988年7月12日の大洋戦(ナゴヤ球場)代打で逆転サヨナラ打を放ち喜ぶ仁村さん 星野監督通算100勝の節目だった
1988年、リーグ優勝し胴上げされる中日・星野監督
勝負に挑む舞台が変わり6年目を迎えた。元巨人、中日の仁村薫さん(58)は、現在、埼玉・川越で米農家として自然と向き合い、格闘している。巨人、中日、楽天でコーチを歴任。かつて「トーキングコーチ」と呼ばれ、若手の育成に心血を注いだ男は、米作りに情熱を傾けている。
「ふと14年間の指導者人生を考えるね。大自然の中で、話しかけても(答えが)返ってこない相手と向き合って。生き物は正直だよ。情熱を傾けても大自然には勝てない。つくづく人間はちっぽけなものだと、その中で生かされていると感じるね」。仁村さんは、それでも稲にむかって、土にむかって“問わず語り”を続けている。
実家は380年前から川越で暮らす農家で、長男の仁村さんは17代目の当主になる。広大な敷地を分断するように、JR川越線が走っている。「心のどこかにいずれは継がなきゃいけないとは考えていた」。楽天コーチを退任しユニホームを脱いだ2012年末から家業を継ぐ形で本格的に農業に取り組んでいる。
最初に始めたのが土壌改良だ。検査して出た成分を分析する。農薬を極力減らすことでシラサギが訪れ、タニシが住むようになった。稲にとって快適な環境は、他の生物にも同じ。どこからか種が舞い込みヒエなどの雑草が生える。あっという間に成長する雑草をこまめに抜く作業も必要になる。コツコツと雑草を抜くことで左手がけんしょう炎になった。
現在、2町4反(約7200坪)の田んぼでキヌヒカリを栽培する。米がおいしくなるためには昼夜の寒暖差が必要と言われる。米どころといわれる東北、新潟と違い、川越は昼夜の気温差が少ない。寒暖の差を作り出すために3、4日に1回水を入れ替える。温まった水を抜き、冷たい水を流し込む。水はけや流れ方も1反ごとにすべて違うため、細かい観察眼も必要だ。「うまくいっている人の田んぼ行ってどのくらいの深さがいいか見て“盗む”こともある」。後はひたすらメモを取る。手帳にはその日行った作業や気がついたことがぎっしりと書き込まれている。「王さんからメモを取れと言われて習慣になった」。野球手帳から農業手帳に変わったが、巨人に入団して3年目、1軍に上がったときの指揮官・王貞治さんからの助言が今に生きている。
巨人での87年のオフに戦力外通告を受けた。その後、王監督から直々に電話をもらった。「残念だが今回、こういう決断をしたから」。律義な行動に頭が下がった。「その後、(中日コーチ時代の1999年に)オープン戦でお会いして、『日本シリーズで(対戦)出来たらいいな』と言ってもらえた。その年に対戦できた。そんな話ができたのもあの電話があったから。本当に出会いに感謝している」。
今年1月4日に70歳で亡くなった闘将・星野仙一さんとの思い出も尽きない。巨人から戦力外を受け、誘ってもらった中日の指揮官が星野さんだった。弟・徹さん(現・楽天スカウト部副部長)と同じチームでプレーする機会に恵まれた。「星野さんは厳しかったね。打っても『何で仁村の兄貴が打てるのに、他の選手が打てないんだ』って。褒められたことはなかったな」。それでも88年7月12日の大洋(現DeNA)戦では「ストレートだけには負けるな」の指揮官の助言に応え、守護神・中山から逆転サヨナラ打を放ち、星野監督の通算100勝に貢献した。喜ぶ顔がそこにあった。
引退した90年の「10・1」本拠地最終戦で「2番・中堅」でスタメン出場した。「引退を報告したら、その後に結構先発で使ってくれてね」。巨人戦で0―1のビハインドの8回無死一塁で、送りバントを決めた。3番、仁村弟が左前安打で続き、4番・落合に逆転3ランが飛び出し、山本昌が入団7年目で初めて2ケタ勝利を挙げた。「落合さんが『今日は俺じゃないよ。“あんちゃん”と“まさ”だろ』って、ヒーローインタビューを譲ってくれた」。いぶし銀のような輝きを見せた現役時代には、いつも闘将の姿があった。
星野さんとの縁はまだ続く。巨人の2軍コーチ退団が決まった97年オフに、連絡をもらった。「帰ってこい。徹を2軍監督にするから、支えろ」。2軍野手総合コーチとして、ロッテで現役引退したばかりの弟・徹監督の下で荒木、井端、森野、福留らの若手を徹底的にしごいた。話し出すと止まらない性格に福留からは「トーキングコーチ」と呼ばれた。星野さんからは「2軍は教育の場。先生が生徒のことを知っているように、選手については全員、性格から何まで分かっていろ」と言われたが、細かい指示などはなく、ほとんど任せてくれた。仁村さんが野球以外のことを学ばせるために、若手を舞台観劇やピアノリサイタルに連れ出しても何も言わなかった。キャンプ中に若手をゴルフのショートコースに連れて行ったコーチにも「何か考えがあるんだろう」と怒ることはなかったという。
「情熱と根気だよね」。星野監督の下でコーチとして得たことは、現在の仕事でも重なる部分がある。夫人が作ってくれた“にぎりめし”を持って朝、家を出ると、暗くなるまで田んぼにいる。愛情を注ぎ、じっくりと稲を見守り、ほんの少しの変化を見逃さない。「情報を収集して戦略を立てる。あとは実行、決断。すべて責任を取る覚悟でやる」。収穫時期をいつにするか。天気など自然環境を知り、予測して方針を立てる。同じ田んぼでも中央と外側では育ち方が違い、決断が早くても遅くても品質が変わる。また収穫した後の乾燥でもすぐ食べる分は水分量を多めにするなど、こまやかな配慮が必要だ。「面白いまでいかない。必死ですよ」と言いながらも全身全霊をかけている。
そのお陰もあり等級検査で「1等米」と認められた。収穫した米は「仁村薫のまごころ米」として販売。読売新聞の販売店や、ナゴヤドーム内のレストランにも卸している。昨年は夏の長雨の影響で受粉が少なかったためか、例年と比べ30俵(約1800キロ)も収穫が少なかった。人事を尽くしても報われないこともある。それが自然でもある。「忘れて 捨てて 許す 淡々と」。親交のある仙台・慈眼寺の僧侶で、千日回峰行を行った大阿闍梨・塩沼亮潤さんから送られた言葉を座右の銘に向き合っている。
星野さんとは昨年12月1に大阪で行われた「野球殿堂入りを祝う会」で会ったのが最後だった。控室で星野さんがほほ笑んで言った言葉が忘れられない。「仁村んとこの餅はうまいんだよな~」。毎年末、自ら育てたもち米で餅つきした餅を送っていた。
自宅にはその時、撮影したツーショット写真が飾られている。スマートホンの待ち受け画面は星野さんと、参謀役として支えた島野さんだ。秩父連峰から吹きつける風に時折、恩師の“気配”を感じて、仁村さんは日々、問わず語りを続けている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆仁村 薫(にむら・かおる)1959年5月9日、埼玉・川越生まれ。58歳。川越商から早大に進み3年春からエースでリーグ通算17勝(10敗)をマーク。4年の日米大学野球は代打で本塁打を放ち優勝に貢献。81年ドラフト6位で巨人に入団。3年目に外野手に転向する。87年に戦力外通告を受け、88年に中日に移籍。弟・徹との兄弟選手として注目を集めた。90年に現役引退。95年から巨人の2軍外野守備コーチに就任、98年から中日で2軍野手総合コーチを手始めに、1軍外野守備コーチ、フィジカルコーチなどを歴任。2003年に1年間離れるが、04年から07年まで中日でコーチを務める。11年に楽天コーチとして2軍監督、野手総合巡回コーチを務め12年オフに退団。プロ通算396試合、394打数91安打、打率2割3分1厘。15本塁打、60打点。現役当時は175センチ、75キロ。右投右打。