↑稲葉日本代表監督との思い出を語る斉藤貢さん
↑2012年4月28日 楽天戦で1回2死一、二塁、右前適時打を放ち通算2000安打を達成した日本ハム・稲葉篤紀
「ENEOS アジアプロ野球チャンピオンシップ 2017」が16日午後7時から東京ドームで開幕する。2020年東京五輪での金メダルを目指し、侍ジャパンの新監督に就任した稲葉篤紀監督(44)の初陣でもある。日本ハム時代に打撃投手を務め、“稲葉の恋人”と呼ばれた斉藤貢さん(47)がエールを送った。
「この選手のためならぶっ壊れてもいいと思った選手ですね」。日本ハム、楽天で12年間、打撃投手を務めた斉藤貢さんの稲葉評だ。稲葉監督が、ヤクルトから日本ハムに移籍した2005年から、斉藤さんが日本ハムを退団する10年までの6年間続いた。
「よく、稲葉の“専属打撃投手”とか“恋人”だとか言われますけど、彼のためだけに投げていたわけではないですよ」。斉藤さんは柔和な表情を崩さずに答えた。2人が交わるきっかけは宮本慎也さん(現ヤクルト・ヘッドコーチ)の存在だった。斉藤さんは宮本さんと社会人野球の名門・プリンスホテルの同級生。宮本さんが稲葉監督とヤクルトの同期入団という縁もあり、宮本さんから電話が入った。「慎也から『稲葉を頼むな』と言われて…」。打撃投手を務める一方、練習を手伝うようになり「波長があったんでしょうね」と斉藤さん。ロングティーでの練習が印象に残っている。「本人はロングティーが苦手だったみたいですよ。でも日本ハムに来て“変わらなきゃ”と思ったんでしょうね。最初は飛ばなかったけれど、やっていくうちに飛ぶようになった。『(飛ばすためには)力じゃない』と本人は言っていましたが、飛ばす感覚を身につけましたね」。中距離砲からの進化をそばで見守った。
2人には毎試合後、行う儀式があった。札幌ドームの選手ロッカーの横にある、スコアラーら裏方さんが控える資料室で、その試合を振り返る“反省会”だ。「全打席の映像を見て検証するんです」。配球や打撃フォームの崩れをチェックして確認した。「この打席は(打ったのは)狙い球だったの? がっついちゃった?」「分かりますか、そうなんですよ」。時には精神論も交え1時間近く続く“反省会”で絆を深めていった。稲葉監督の真摯(しんし)な姿を見て、資料室の扉をノックする若手が増えて、球団の伝統になった。
稲葉監督だけではない。裏方を大事にする習慣は日本ハムに根付いていた。06年に日本一に輝いた際には、SHINJOの発案で祝勝会の会場のど真ん中に裏方さんが集められた。「『優勝おめでとう』ってみんなからシャンパンファイトですよ。本当にうれしかったなあ」。
試合前の打撃練習では、相手先発の左右により、打撃投手の役割が変わる。サウスポーが先発する場合、左投手の打撃投手の仕事が増える。そんな状況でも右腕の斉藤さんは稲葉に投げ続けた。「稲葉に対しては真っすぐとカーブを交互に投げました。真っすぐのタイミングでカーブを待って逆方向へ打つ。それが彼の調整法でした」。
そんな関係も10年に幕を閉じた。斉藤さんが球団から契約を更新しない旨を伝えられたのだ。稲葉監督は2000本安打まであと158本だった。約束した訳ではないが、節目を見届けたかった。オフの球団納会の宴席で、斉藤さんのもとに、稲葉監督はお酌をしに来た。斉藤さんが「ごめん、2000本安打見られなくて…」と話すと、稲葉監督は人目もはばからず号泣し「僕に力がなくてすみません」と涙ながらに話した。「僕が辞めることを知らない人もいたから、不思議な光景だったと思いますよ。うれしかったし悔しい…、情けない…、色々な思いが交錯しましたね」。
その翌日から、斉藤さんは稲葉監督とゴルフ三昧の日々を送った。「『ゴルフ行きましょう』って誘ってくれて。でも一切、思い出話もしないし、今後どうするのかあいつは聞かないんです。彼の独特の気遣い、優しさを感じました」。
余談にはなるが、稲葉監督が2000本安打を達成したのは、2012年4月28日の楽天戦(Kスタ宮城)だった。当時、斉藤さんは楽天で打撃投手を務めていたため、節目の試合に立ち会うことが出来た。試合後、斉藤さんはバスに乗り込んだ稲葉監督と窓越しに握手をして喜びを分かち合った。
翌13年、斉藤さんはWBC日本代表に打撃投手に派遣されたが、中指の腱(けん)を痛め宮崎合宿中に離脱。稲葉監督とともに米国へ行く夢も果たせなかった。その年限りで打撃投手を“引退”。楽天のスクールコーチを務めたが昨年限りで退団し、球界からは離れている。
今は稲葉ジャパンをファンとして見守る。「指導経験がないとか色々言われているけれど、彼の色で行って欲しい。ベンチで笑ってもいいと思うんです。どんなに苦しくても気さくにマスコミに対応して欲しいし、今までの姿勢を崩して欲しくない。ぶれて欲しくない。それが一ファン、一友人としての願いです」。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆斉藤 貢(さいとう・みつぐ)1970年4月26日、埼玉生まれ。47歳。所沢商では3年夏、県4回戦敗退。明大進学も中退し、アルバイトを経てプリンスホテルへ。94年、ダイエー(現・ソフトバンク)を逆指名しドラフト2位で入団。95年はリーグ新人1番乗りで完封勝利を挙げるも2勝。96年は登録名「ミツグ」でプレー。00年に戦力外通告を受け、入団テストを経て01年は日本ハムでプレーも同年限りで現役引退。99試合、3勝11敗、防御率5・44。02年から10年まで日本ハムで打撃投手を務め、11年から13年まで楽天の打撃投手。14年から16年までは楽天のジュニアコーチを務めた。
↑2012年4月28日 楽天戦で1回2死一、二塁、右前適時打を放ち通算2000安打を達成した日本ハム・稲葉篤紀
「ENEOS アジアプロ野球チャンピオンシップ 2017」が16日午後7時から東京ドームで開幕する。2020年東京五輪での金メダルを目指し、侍ジャパンの新監督に就任した稲葉篤紀監督(44)の初陣でもある。日本ハム時代に打撃投手を務め、“稲葉の恋人”と呼ばれた斉藤貢さん(47)がエールを送った。
「この選手のためならぶっ壊れてもいいと思った選手ですね」。日本ハム、楽天で12年間、打撃投手を務めた斉藤貢さんの稲葉評だ。稲葉監督が、ヤクルトから日本ハムに移籍した2005年から、斉藤さんが日本ハムを退団する10年までの6年間続いた。
「よく、稲葉の“専属打撃投手”とか“恋人”だとか言われますけど、彼のためだけに投げていたわけではないですよ」。斉藤さんは柔和な表情を崩さずに答えた。2人が交わるきっかけは宮本慎也さん(現ヤクルト・ヘッドコーチ)の存在だった。斉藤さんは宮本さんと社会人野球の名門・プリンスホテルの同級生。宮本さんが稲葉監督とヤクルトの同期入団という縁もあり、宮本さんから電話が入った。「慎也から『稲葉を頼むな』と言われて…」。打撃投手を務める一方、練習を手伝うようになり「波長があったんでしょうね」と斉藤さん。ロングティーでの練習が印象に残っている。「本人はロングティーが苦手だったみたいですよ。でも日本ハムに来て“変わらなきゃ”と思ったんでしょうね。最初は飛ばなかったけれど、やっていくうちに飛ぶようになった。『(飛ばすためには)力じゃない』と本人は言っていましたが、飛ばす感覚を身につけましたね」。中距離砲からの進化をそばで見守った。
2人には毎試合後、行う儀式があった。札幌ドームの選手ロッカーの横にある、スコアラーら裏方さんが控える資料室で、その試合を振り返る“反省会”だ。「全打席の映像を見て検証するんです」。配球や打撃フォームの崩れをチェックして確認した。「この打席は(打ったのは)狙い球だったの? がっついちゃった?」「分かりますか、そうなんですよ」。時には精神論も交え1時間近く続く“反省会”で絆を深めていった。稲葉監督の真摯(しんし)な姿を見て、資料室の扉をノックする若手が増えて、球団の伝統になった。
稲葉監督だけではない。裏方を大事にする習慣は日本ハムに根付いていた。06年に日本一に輝いた際には、SHINJOの発案で祝勝会の会場のど真ん中に裏方さんが集められた。「『優勝おめでとう』ってみんなからシャンパンファイトですよ。本当にうれしかったなあ」。
試合前の打撃練習では、相手先発の左右により、打撃投手の役割が変わる。サウスポーが先発する場合、左投手の打撃投手の仕事が増える。そんな状況でも右腕の斉藤さんは稲葉に投げ続けた。「稲葉に対しては真っすぐとカーブを交互に投げました。真っすぐのタイミングでカーブを待って逆方向へ打つ。それが彼の調整法でした」。
そんな関係も10年に幕を閉じた。斉藤さんが球団から契約を更新しない旨を伝えられたのだ。稲葉監督は2000本安打まであと158本だった。約束した訳ではないが、節目を見届けたかった。オフの球団納会の宴席で、斉藤さんのもとに、稲葉監督はお酌をしに来た。斉藤さんが「ごめん、2000本安打見られなくて…」と話すと、稲葉監督は人目もはばからず号泣し「僕に力がなくてすみません」と涙ながらに話した。「僕が辞めることを知らない人もいたから、不思議な光景だったと思いますよ。うれしかったし悔しい…、情けない…、色々な思いが交錯しましたね」。
その翌日から、斉藤さんは稲葉監督とゴルフ三昧の日々を送った。「『ゴルフ行きましょう』って誘ってくれて。でも一切、思い出話もしないし、今後どうするのかあいつは聞かないんです。彼の独特の気遣い、優しさを感じました」。
余談にはなるが、稲葉監督が2000本安打を達成したのは、2012年4月28日の楽天戦(Kスタ宮城)だった。当時、斉藤さんは楽天で打撃投手を務めていたため、節目の試合に立ち会うことが出来た。試合後、斉藤さんはバスに乗り込んだ稲葉監督と窓越しに握手をして喜びを分かち合った。
翌13年、斉藤さんはWBC日本代表に打撃投手に派遣されたが、中指の腱(けん)を痛め宮崎合宿中に離脱。稲葉監督とともに米国へ行く夢も果たせなかった。その年限りで打撃投手を“引退”。楽天のスクールコーチを務めたが昨年限りで退団し、球界からは離れている。
今は稲葉ジャパンをファンとして見守る。「指導経験がないとか色々言われているけれど、彼の色で行って欲しい。ベンチで笑ってもいいと思うんです。どんなに苦しくても気さくにマスコミに対応して欲しいし、今までの姿勢を崩して欲しくない。ぶれて欲しくない。それが一ファン、一友人としての願いです」。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆斉藤 貢(さいとう・みつぐ)1970年4月26日、埼玉生まれ。47歳。所沢商では3年夏、県4回戦敗退。明大進学も中退し、アルバイトを経てプリンスホテルへ。94年、ダイエー(現・ソフトバンク)を逆指名しドラフト2位で入団。95年はリーグ新人1番乗りで完封勝利を挙げるも2勝。96年は登録名「ミツグ」でプレー。00年に戦力外通告を受け、入団テストを経て01年は日本ハムでプレーも同年限りで現役引退。99試合、3勝11敗、防御率5・44。02年から10年まで日本ハムで打撃投手を務め、11年から13年まで楽天の打撃投手。14年から16年までは楽天のジュニアコーチを務めた。