↑ドラフト2日前の明大戦、思い切り左足を跳ね上げ投球する宮台
↑26日、ようやく日本ハムからドラフト指名を受け、東大のマスコット「イチ公」から花束で祝福された宮台
まさかの指名なしか…。東大・本郷キャンパス内にあるビルの一室に集められた報道陣の誰もがそう思った。
10月26日に行われたプロ野球の新人選手選択会議。午後5時の開始冒頭から清宮幸太郎(早実→日本ハム1位)、中村奨成(広陵→広島1位)、安田尚憲(履正社→ロッテ1位)ら、今年のドラフトの主役たちの名前が次々と読み上げられ、交渉権の行方が決まった。しかしその中に名を連ねるはずの東大エース左腕・宮台康平の名前は、なかなか登場しなかった。テレビの地上波中継も終了し、他球団からは支配下選手のドラフト指名を終えたことを意味する「選択終了」の文字も出はじめた午後7時20分ごろ、ネット上で宮台の名前が日本ハム7位の欄に表示された。「呼ばれるまでとても不安でした」。直後の会見で語った言葉は、22歳の偽らざる心境を表した言葉だろう。
1年以上に及んだ苦しみを乗り越えて、プロのステージで勝負する切符をつかんだ。3年生だった2016年。東京六大学野球春季リーグ戦で完封を含む2勝を挙げ、7月には東大生として33年ぶりの侍ジャパン大学代表に選出。神宮での日米大学野球第3戦で先発し、自己最速となる150キロを計測した。しかしその1球を頂点に、宮台は地獄を見ることになる。左肩痛を発症し、16年秋の登板はたったの1イニング。年が明け、痛みの出ない新しいフォームへの改造に着手するも、今春リーグ戦は7試合に登板して0勝3敗。防御率は8.17まで跳ね上がり、チームも10連敗に終わった。プロへアピールする上で最も重要とされる大学4年生の春にこの低迷。カメラマンとして撮影した宮台の写真に添える説明文には、常に「ドラフト候補」という肩書きをつけてはいたが、正直本当にこのままの状態でプロを目指し続けるのか。見守るしかない私たちの頭の中にも「?」マークが浮かんだ春だった。
迎えた大学最後の秋。9月16日の慶大1回戦で2失点完投勝利。10月7日の法大戦でも2失点で完投勝利し、翌8日の2回戦も救援登板して勝利に貢献。今までどんなにいい投球をしても2002年秋以来の勝ち点奪取までは満足できないと話し続けてきた左腕にとって念願の目標を、最後の最後に達成してみせた。
春の低迷を眼の当たりにして以来、私が今秋の宮台を取材できたのは、学生最後の登板。ドラフト2日前の10月24日、明大戦だった。6回から救援して4回2失点。チームは敗れたが、それ以上に印象に残ったのは、投球後に右足で地面をかみ、思い切り左足を跳ね上げる動きが戻っていたことだった。初めて宮台を取材した大学3年生のころのあの躍動感が帰ってきた。そんな気がした。6回の登板直後には、味方守備陣の動きに怒りと悔しさをこめてマウンドを蹴り上げる場面もあった。自分にもチームメートにも厳しいのが宮台本来の姿。故障との戦い、新フォームの追求。春には内向きに、相手より自分と戦っているように見えた背番号1の姿は、もうそこにはなかった。
ほとばしる躍動感。現在DeNAの守護神に君臨する山崎康の亜大時代と同じくらい、カメラマンとしては撮影しがいのある投手だった。それにしてもだ…。ここ2、3年のアマ球界紙面をにぎわせ続けてきた清宮幸太郎と宮台康平が、まさか同期として一緒に日本ハムに入ることになるとは。まったく考えもしなかった。プロの舞台での成功はもちろんのこと、何より自分が納得できるまで野球を続けて欲しい。そんな思いでいっぱいだ。そして今年のアマ野球の舞台は11月10日からの明治神宮野球大会まで続く。選手との縁を求めて、これからも積極的に仕事に携わりたい。(記者コラム・写真部 泉 貫太)
↑26日、ようやく日本ハムからドラフト指名を受け、東大のマスコット「イチ公」から花束で祝福された宮台
まさかの指名なしか…。東大・本郷キャンパス内にあるビルの一室に集められた報道陣の誰もがそう思った。
10月26日に行われたプロ野球の新人選手選択会議。午後5時の開始冒頭から清宮幸太郎(早実→日本ハム1位)、中村奨成(広陵→広島1位)、安田尚憲(履正社→ロッテ1位)ら、今年のドラフトの主役たちの名前が次々と読み上げられ、交渉権の行方が決まった。しかしその中に名を連ねるはずの東大エース左腕・宮台康平の名前は、なかなか登場しなかった。テレビの地上波中継も終了し、他球団からは支配下選手のドラフト指名を終えたことを意味する「選択終了」の文字も出はじめた午後7時20分ごろ、ネット上で宮台の名前が日本ハム7位の欄に表示された。「呼ばれるまでとても不安でした」。直後の会見で語った言葉は、22歳の偽らざる心境を表した言葉だろう。
1年以上に及んだ苦しみを乗り越えて、プロのステージで勝負する切符をつかんだ。3年生だった2016年。東京六大学野球春季リーグ戦で完封を含む2勝を挙げ、7月には東大生として33年ぶりの侍ジャパン大学代表に選出。神宮での日米大学野球第3戦で先発し、自己最速となる150キロを計測した。しかしその1球を頂点に、宮台は地獄を見ることになる。左肩痛を発症し、16年秋の登板はたったの1イニング。年が明け、痛みの出ない新しいフォームへの改造に着手するも、今春リーグ戦は7試合に登板して0勝3敗。防御率は8.17まで跳ね上がり、チームも10連敗に終わった。プロへアピールする上で最も重要とされる大学4年生の春にこの低迷。カメラマンとして撮影した宮台の写真に添える説明文には、常に「ドラフト候補」という肩書きをつけてはいたが、正直本当にこのままの状態でプロを目指し続けるのか。見守るしかない私たちの頭の中にも「?」マークが浮かんだ春だった。
迎えた大学最後の秋。9月16日の慶大1回戦で2失点完投勝利。10月7日の法大戦でも2失点で完投勝利し、翌8日の2回戦も救援登板して勝利に貢献。今までどんなにいい投球をしても2002年秋以来の勝ち点奪取までは満足できないと話し続けてきた左腕にとって念願の目標を、最後の最後に達成してみせた。
春の低迷を眼の当たりにして以来、私が今秋の宮台を取材できたのは、学生最後の登板。ドラフト2日前の10月24日、明大戦だった。6回から救援して4回2失点。チームは敗れたが、それ以上に印象に残ったのは、投球後に右足で地面をかみ、思い切り左足を跳ね上げる動きが戻っていたことだった。初めて宮台を取材した大学3年生のころのあの躍動感が帰ってきた。そんな気がした。6回の登板直後には、味方守備陣の動きに怒りと悔しさをこめてマウンドを蹴り上げる場面もあった。自分にもチームメートにも厳しいのが宮台本来の姿。故障との戦い、新フォームの追求。春には内向きに、相手より自分と戦っているように見えた背番号1の姿は、もうそこにはなかった。
ほとばしる躍動感。現在DeNAの守護神に君臨する山崎康の亜大時代と同じくらい、カメラマンとしては撮影しがいのある投手だった。それにしてもだ…。ここ2、3年のアマ球界紙面をにぎわせ続けてきた清宮幸太郎と宮台康平が、まさか同期として一緒に日本ハムに入ることになるとは。まったく考えもしなかった。プロの舞台での成功はもちろんのこと、何より自分が納得できるまで野球を続けて欲しい。そんな思いでいっぱいだ。そして今年のアマ野球の舞台は11月10日からの明治神宮野球大会まで続く。選手との縁を求めて、これからも積極的に仕事に携わりたい。(記者コラム・写真部 泉 貫太)