元巨人の代走のスペシャリスト、鈴木尚広氏(38)と年の瀬に会った。クライマックスシリーズの横浜DeNA戦で、まさかの牽制死、そしてあまりに突然の引退発表。“神の足“と呼ばれた男の引き際に何があったのか。
そろそろ野球をやりたくなってきたのでは? そう問いかけると、鈴木氏は「特にないですね」と笑う。
現役時代は、午前5時に起床、東京ドームに試合開始7時間も前に到着して入念な準備をしてきた。ストイックを絵に描いたような男は、引退してから特段、運動はしていないという。
「動いていないので、お腹も減りませんし、食べたいという気も起きません。一日一食という生活をしていたら、代謝がいいもので何キロも痩せてしまいました」
そう言われると心なしか頬がこけて見える。
38歳にして塁間の秒数はアップ、年齢と共に足腰に出てもおかしくなかったはずの怪我もなかった。高橋監督、フロント共に来季の戦力として計算していた。なのに、なぜ辞めるのか。引退発表後、会う人、会う人に「まだできるのに」と惜しまれる。野球の楽しさも厳しさも、そして基本技術さえもマンツーマンで徹底して教えこんでくれ、プロに進むまでの道筋を作ってくれた福島で焼肉店を営む父からは、「あと1年だけやってくれ」と、翻意を促されたが「無理だ」と答えた。
「(まだできるのにという声を)多く耳にします、でも、それは僕が決めることです。いつまでも野球選手ではいられません。第二の人生を一から作りあげ、視野を広げて、自分が成長しなければならないと考えました。野球選手としての成長は、もう十分。チームでの役目を終えたんです」
引退会見で、鈴木氏は「体力、技術は上がっていますが、心が離れていきました。僕の仕事は一発勝負。心、技、体のどれかひとつが欠ければ、もう勝負はできません」と語った。
その「心が離れた」という言葉の意味がよくわからなかった。
ストレートに聞いてみた。
「心が離れた」とは何をさすのか。そしてそれはナゼおきたのかと。
「どうなんでしょうか。毎年、自分のやるべきことをやりました。(試合に)出る出ないはわかりませんが、悔いはなく、出し尽くしました。燃え尽きたわけではありませんが、自分の勝負に対するものにかげりがみえたんです。全部を出し切っているなかで、貪欲さがなくなってきたのかもしれません。元々貪欲さはないんですが(笑)。心ここにあらずっというのがあったんです。あんな気持ちで、よく成功していたなあと」
代走という1試合に一度だけ巡ってくる勝負に向けて、鈴木氏が全身全霊をかける丹念な準備は有名だ。
ナイターゲームだと、午前11時には東京ドームに入り、足湯につかり体を温め、入念なストレッチ、体幹トレーニングでチームの試合前練習開始前に2時間も準備を行う。試合中には、ゲーム展開を読みながら、ドームのロッカー裏に作られた専用の人工芝レーンを使って暖気運転を終えておく。そしてゲームが佳境に入ると、相手ベンチとバッテリーに心理的なプレッシャーをかけるため、トレードマークとなっていたオレンジの走塁用グローブをつけて、わざとベンチに姿を見せる。
「自分が監督になったつもりで、チームの流れ、僕自身の流れを気にしながら、どこで使うんだ? とゲームの流れを読むのです。ここで来るんじゃないか? と予測を立てていくわけです。監督から“行け”と言われたときに、いつでも行けるための準備です。原監督、高橋監督とも、そういう野球観を摺り合わせるような話をしたことは一度もありませんが、感じるんです。必然、監督の傾向が出てきます。僕の中では、自分の考えと監督の勝負が、ズレるほうが少なかった。え? ここで? というズレは、あまりありませんでした」
そして声がかかるとベースタッチと同時にスイッチが入り無の境地になるという。
「下調べと準備。自分のやるべきことをやってから、そこに行き着くからプレッシャーは感じず、むしろ何も考えません。ベースにいく前にすべてを整えていくんです。だから冷静に対応ができました。あそこで何かを考えるようになると逆にスタートがきれなくなります。ベース上では、何食わぬ顔をするんです。弱気を表情に出さないんです」
相手ベンチからすれば憎いほどのポーカーフェイスも考え尽くされたものだった。
「例えば陸上のボルトを見ていると顔の筋肉が緩んでいます。緊張と弛緩のバランスがいいんです。力みが消えパフォーマンスがアップします。それに何食わぬ顔でリラックスしていれば、“こんな場面で緊張しない奴って、どんな奴?”とバッテリーは考えるでしょう? 考えさせる、惑わせることが大切なんです」
ベース上では、時折、一塁手が話しかけてくるが、「返事をしているが心そこにあらず。人と話している感覚もなかった」。それほど集中していた。いわゆるアスリートにおけるゾーンの状態である。
それでも、その境地にたどり着くまでは「10年かかった」という。
「若い頃は、ファンの声援も雑音に聞こえてしまうくらいに視野も狭く、地に足がつかず聴覚の感覚も失われていました。緊張で自分の心臓の音が耳元で聞こえるくらいでした」
盗塁技術も磨きあげた。
盗塁には、勝負のポイントが3つあるという。牽制やクイックでなんとか阻止しようとするピッチャー、スローイングで刺そうとするキャッチャー、そしてタッチプレーを試みる野手との接点だ。
「盗塁に対しては、ピッチャーが投げる、キャッチャーが捕って投げる、野手が捕ってタッチするという3つの行程があります。そのどこかで相手がミスをしてくれれば盗塁は成功します。スタートがよければ、キャッチャーは焦るでしょう。つまり相手にいろんなことを考えさせて、そのひとつひとつを崩していく。そこにおもしろさがありました。足が速いだけじゃむずかしいんです」
VTRを何度もチェックして投手の牽制の癖を盗んで走るタイプではない。
「そこは判断材料にはしません。癖がわかるピッチャーがいればいいが、わからないピッチャーもいて、癖に偏りすぎると、力は落ちてきます」。
鈴木氏が、現役時代に尊敬して、その技術を目で盗んでいたという元阪神の赤星憲広は、感性でタイミングをつかむと言っていた。
「スタメン出場ができればリズムがあり、牽制がくるかこないかは、五感でわかるんです。スタメンで出るときは、それは感じていました。でも、それは反復があるからこそわかるもので、代走勝負となるとわからないんです。そこをあわせるのが難しい」
鈴木氏のスライディングも独特だった。スピードを落とさず至近距離から、まるでキックを出すように突っ込む超高速スライディング。
「体が近くまできて足をキックするように出すので野手は怖いんです。僕からすれば怪我の防止も考えたスライディングでしたが、毎回、この形で滑りこんで、相手に“鈴木はクロスプレーになると怖い”という印象を植え付けるんです。これだけでひとつ優位に立てます」
そこまでの万全の準備をしても出番の回ってこない試合もある。
気が遠くなるようなルーティンを鈴木氏は、代走のスペシャリストとしての地位を築いた2011年あたりから6年間も続けてきた。
だが、徐々に体力、技術、メンタルのバランスが崩れ始めたという。
足にはスランプがない、が球界の常識のように言われている。だが鈴木氏は、その考え方を否定した。
「感覚的なスランプはたくさんあるんです。考えすぎて無になれないんです。そこに陥ったら、なかなか動けず、行けなくなる。その中で、盗塁という反応は必ず相手が先でバッテリーに主導権を持たれている状況で勝負をしなければならなかった。だから実際、228個の盗塁のうち、納得のいく盗塁は、ほとんどなかったんです。合計10個もないんじゃないですかねえ」
バランスの崩壊が顕著に出たのが、あの横浜DeNAとのクライマックスシリーズでのまさかの牽制死の場面だった。3-3の同点で迎えた9回、足を痛めていた村田修一が内野安打で出塁した。無死一塁で、4番の阿部慎之介を迎えたサヨナラのチャンスに満を持して代走・鈴木氏が告げられた。
「最初から(田中と)合ってないなあという感じがあったんです。“今日は自分にとって逆の方にいっているなあ”という感じがしていたんです。それと田中選手が、あそこで投げるという予測がなかった。三上の続投か、山崎康の投入か、そういう読みをしていたので、僕にとってちょっと予想外で、面食らい出遅れた感じがあったんです。いつもと違う感じですね」
試合の流れを見て予測する“読み”が狂い、五感で感じる無の境地を保てない。
ボールカウント1-0だった。横浜DeNAの左腕・田中が、いつもより長くボールを持っていた気がしたが、鈴木氏は牽制で逆をつかれた。「スタートをきろうとしたんです。あそこは勝負する場面でした」
頭からベースに戻ったが間にあわずサヨナラのチャンスは消えた。延長で巨人は敗れ、結果的にこれが鈴木氏の現役最後のプレーとなった。
「(失敗した)悔しいという感情よりも、チームへの責任感を感じました。悔しいよりも申し訳ない、そういう気持ちでした」
鈴木氏は、その感情を押し殺したままベンチで走塁グローブを外した。
「心がそこになかったことが招いた必然のアウトでした。(引退の)決め手になったわけではありませんが、やっぱりこうなるなあっていうのがわかりました」
あの試合は、引退の引き金ではなく、心が離れたことを最終確認するシーンになった。
「(引退を決めたのは)突然じゃないんです。1年間考えながらやってきて、少しづつ(立場が)変化しているなあ、流れてきているなと肌で感じてきた。今までは、わがままな野球ができていました。自分のことだけを考えておけばいい。でも20年の月日と共に立ち位置が変化していました。
これまでインプットしてきたものをアウトプットして人に伝えるという役割もありました。自分のことよりもチームのことを考えるようになったんです。この選手はなんとかならないか、アドバイスしようかと、広い視野の中で試合を見ていました。あてにされるのはうれしいが、そこじゃないだろうとも、いつも思っていました」
そして、こうも続けた。
「僕の代走のポジションは確立されていました。誰にも負けるつもりはありません。でも僕が出るのはチームが苦しい状況ということ。僕が目立つよりもレギュラーが目立ったほうがいいんです。僕がクローズアップされるようでは、チーム力がないんです」
あの一塁ベース上で無になれない理由はこんなところにも転がっていたのかもしれない。
1996年に福島の相馬高校からドラフト4位で入団後、怪我に泣かされ、スイッチに挑戦し外野にも転向し何度も挫折を乗り超えながら、ただ一途にストイックな野球道を追求し続けてきた。
その鈴木氏が、自分のことよりもチームのことを考えねばならなくなったとき、スペシャリストとして持ち続けなければならなかった研ぎ澄まされた感性が鈍り、皮肉にも、彼が持つプロとしての哲学を貫けなくなるという矛盾を感じ取ったのである。
「私がこだわったプロとして生き様。それができなくなったのです」
究極のプロ道を究めた鈴木氏らしいといえばらしい決断だが、歴代ナンバーワンの盗塁成功確率.829を誇る個性あふれる足のスペシャリストが、球界からいなくなるのは、あまりに寂しい。
あなたのような代走の専門家が、また出てきますかね?
「僕みたいなスペシャリストは、もう難しいかもしれませんが、出てきて欲しいですね」
鈴木氏は、今、後継者を育てるための一歩を静かに踏み出している。
そろそろ野球をやりたくなってきたのでは? そう問いかけると、鈴木氏は「特にないですね」と笑う。
現役時代は、午前5時に起床、東京ドームに試合開始7時間も前に到着して入念な準備をしてきた。ストイックを絵に描いたような男は、引退してから特段、運動はしていないという。
「動いていないので、お腹も減りませんし、食べたいという気も起きません。一日一食という生活をしていたら、代謝がいいもので何キロも痩せてしまいました」
そう言われると心なしか頬がこけて見える。
38歳にして塁間の秒数はアップ、年齢と共に足腰に出てもおかしくなかったはずの怪我もなかった。高橋監督、フロント共に来季の戦力として計算していた。なのに、なぜ辞めるのか。引退発表後、会う人、会う人に「まだできるのに」と惜しまれる。野球の楽しさも厳しさも、そして基本技術さえもマンツーマンで徹底して教えこんでくれ、プロに進むまでの道筋を作ってくれた福島で焼肉店を営む父からは、「あと1年だけやってくれ」と、翻意を促されたが「無理だ」と答えた。
「(まだできるのにという声を)多く耳にします、でも、それは僕が決めることです。いつまでも野球選手ではいられません。第二の人生を一から作りあげ、視野を広げて、自分が成長しなければならないと考えました。野球選手としての成長は、もう十分。チームでの役目を終えたんです」
引退会見で、鈴木氏は「体力、技術は上がっていますが、心が離れていきました。僕の仕事は一発勝負。心、技、体のどれかひとつが欠ければ、もう勝負はできません」と語った。
その「心が離れた」という言葉の意味がよくわからなかった。
ストレートに聞いてみた。
「心が離れた」とは何をさすのか。そしてそれはナゼおきたのかと。
「どうなんでしょうか。毎年、自分のやるべきことをやりました。(試合に)出る出ないはわかりませんが、悔いはなく、出し尽くしました。燃え尽きたわけではありませんが、自分の勝負に対するものにかげりがみえたんです。全部を出し切っているなかで、貪欲さがなくなってきたのかもしれません。元々貪欲さはないんですが(笑)。心ここにあらずっというのがあったんです。あんな気持ちで、よく成功していたなあと」
代走という1試合に一度だけ巡ってくる勝負に向けて、鈴木氏が全身全霊をかける丹念な準備は有名だ。
ナイターゲームだと、午前11時には東京ドームに入り、足湯につかり体を温め、入念なストレッチ、体幹トレーニングでチームの試合前練習開始前に2時間も準備を行う。試合中には、ゲーム展開を読みながら、ドームのロッカー裏に作られた専用の人工芝レーンを使って暖気運転を終えておく。そしてゲームが佳境に入ると、相手ベンチとバッテリーに心理的なプレッシャーをかけるため、トレードマークとなっていたオレンジの走塁用グローブをつけて、わざとベンチに姿を見せる。
「自分が監督になったつもりで、チームの流れ、僕自身の流れを気にしながら、どこで使うんだ? とゲームの流れを読むのです。ここで来るんじゃないか? と予測を立てていくわけです。監督から“行け”と言われたときに、いつでも行けるための準備です。原監督、高橋監督とも、そういう野球観を摺り合わせるような話をしたことは一度もありませんが、感じるんです。必然、監督の傾向が出てきます。僕の中では、自分の考えと監督の勝負が、ズレるほうが少なかった。え? ここで? というズレは、あまりありませんでした」
そして声がかかるとベースタッチと同時にスイッチが入り無の境地になるという。
「下調べと準備。自分のやるべきことをやってから、そこに行き着くからプレッシャーは感じず、むしろ何も考えません。ベースにいく前にすべてを整えていくんです。だから冷静に対応ができました。あそこで何かを考えるようになると逆にスタートがきれなくなります。ベース上では、何食わぬ顔をするんです。弱気を表情に出さないんです」
相手ベンチからすれば憎いほどのポーカーフェイスも考え尽くされたものだった。
「例えば陸上のボルトを見ていると顔の筋肉が緩んでいます。緊張と弛緩のバランスがいいんです。力みが消えパフォーマンスがアップします。それに何食わぬ顔でリラックスしていれば、“こんな場面で緊張しない奴って、どんな奴?”とバッテリーは考えるでしょう? 考えさせる、惑わせることが大切なんです」
ベース上では、時折、一塁手が話しかけてくるが、「返事をしているが心そこにあらず。人と話している感覚もなかった」。それほど集中していた。いわゆるアスリートにおけるゾーンの状態である。
それでも、その境地にたどり着くまでは「10年かかった」という。
「若い頃は、ファンの声援も雑音に聞こえてしまうくらいに視野も狭く、地に足がつかず聴覚の感覚も失われていました。緊張で自分の心臓の音が耳元で聞こえるくらいでした」
盗塁技術も磨きあげた。
盗塁には、勝負のポイントが3つあるという。牽制やクイックでなんとか阻止しようとするピッチャー、スローイングで刺そうとするキャッチャー、そしてタッチプレーを試みる野手との接点だ。
「盗塁に対しては、ピッチャーが投げる、キャッチャーが捕って投げる、野手が捕ってタッチするという3つの行程があります。そのどこかで相手がミスをしてくれれば盗塁は成功します。スタートがよければ、キャッチャーは焦るでしょう。つまり相手にいろんなことを考えさせて、そのひとつひとつを崩していく。そこにおもしろさがありました。足が速いだけじゃむずかしいんです」
VTRを何度もチェックして投手の牽制の癖を盗んで走るタイプではない。
「そこは判断材料にはしません。癖がわかるピッチャーがいればいいが、わからないピッチャーもいて、癖に偏りすぎると、力は落ちてきます」。
鈴木氏が、現役時代に尊敬して、その技術を目で盗んでいたという元阪神の赤星憲広は、感性でタイミングをつかむと言っていた。
「スタメン出場ができればリズムがあり、牽制がくるかこないかは、五感でわかるんです。スタメンで出るときは、それは感じていました。でも、それは反復があるからこそわかるもので、代走勝負となるとわからないんです。そこをあわせるのが難しい」
鈴木氏のスライディングも独特だった。スピードを落とさず至近距離から、まるでキックを出すように突っ込む超高速スライディング。
「体が近くまできて足をキックするように出すので野手は怖いんです。僕からすれば怪我の防止も考えたスライディングでしたが、毎回、この形で滑りこんで、相手に“鈴木はクロスプレーになると怖い”という印象を植え付けるんです。これだけでひとつ優位に立てます」
そこまでの万全の準備をしても出番の回ってこない試合もある。
気が遠くなるようなルーティンを鈴木氏は、代走のスペシャリストとしての地位を築いた2011年あたりから6年間も続けてきた。
だが、徐々に体力、技術、メンタルのバランスが崩れ始めたという。
足にはスランプがない、が球界の常識のように言われている。だが鈴木氏は、その考え方を否定した。
「感覚的なスランプはたくさんあるんです。考えすぎて無になれないんです。そこに陥ったら、なかなか動けず、行けなくなる。その中で、盗塁という反応は必ず相手が先でバッテリーに主導権を持たれている状況で勝負をしなければならなかった。だから実際、228個の盗塁のうち、納得のいく盗塁は、ほとんどなかったんです。合計10個もないんじゃないですかねえ」
バランスの崩壊が顕著に出たのが、あの横浜DeNAとのクライマックスシリーズでのまさかの牽制死の場面だった。3-3の同点で迎えた9回、足を痛めていた村田修一が内野安打で出塁した。無死一塁で、4番の阿部慎之介を迎えたサヨナラのチャンスに満を持して代走・鈴木氏が告げられた。
「最初から(田中と)合ってないなあという感じがあったんです。“今日は自分にとって逆の方にいっているなあ”という感じがしていたんです。それと田中選手が、あそこで投げるという予測がなかった。三上の続投か、山崎康の投入か、そういう読みをしていたので、僕にとってちょっと予想外で、面食らい出遅れた感じがあったんです。いつもと違う感じですね」
試合の流れを見て予測する“読み”が狂い、五感で感じる無の境地を保てない。
ボールカウント1-0だった。横浜DeNAの左腕・田中が、いつもより長くボールを持っていた気がしたが、鈴木氏は牽制で逆をつかれた。「スタートをきろうとしたんです。あそこは勝負する場面でした」
頭からベースに戻ったが間にあわずサヨナラのチャンスは消えた。延長で巨人は敗れ、結果的にこれが鈴木氏の現役最後のプレーとなった。
「(失敗した)悔しいという感情よりも、チームへの責任感を感じました。悔しいよりも申し訳ない、そういう気持ちでした」
鈴木氏は、その感情を押し殺したままベンチで走塁グローブを外した。
「心がそこになかったことが招いた必然のアウトでした。(引退の)決め手になったわけではありませんが、やっぱりこうなるなあっていうのがわかりました」
あの試合は、引退の引き金ではなく、心が離れたことを最終確認するシーンになった。
「(引退を決めたのは)突然じゃないんです。1年間考えながらやってきて、少しづつ(立場が)変化しているなあ、流れてきているなと肌で感じてきた。今までは、わがままな野球ができていました。自分のことだけを考えておけばいい。でも20年の月日と共に立ち位置が変化していました。
これまでインプットしてきたものをアウトプットして人に伝えるという役割もありました。自分のことよりもチームのことを考えるようになったんです。この選手はなんとかならないか、アドバイスしようかと、広い視野の中で試合を見ていました。あてにされるのはうれしいが、そこじゃないだろうとも、いつも思っていました」
そして、こうも続けた。
「僕の代走のポジションは確立されていました。誰にも負けるつもりはありません。でも僕が出るのはチームが苦しい状況ということ。僕が目立つよりもレギュラーが目立ったほうがいいんです。僕がクローズアップされるようでは、チーム力がないんです」
あの一塁ベース上で無になれない理由はこんなところにも転がっていたのかもしれない。
1996年に福島の相馬高校からドラフト4位で入団後、怪我に泣かされ、スイッチに挑戦し外野にも転向し何度も挫折を乗り超えながら、ただ一途にストイックな野球道を追求し続けてきた。
その鈴木氏が、自分のことよりもチームのことを考えねばならなくなったとき、スペシャリストとして持ち続けなければならなかった研ぎ澄まされた感性が鈍り、皮肉にも、彼が持つプロとしての哲学を貫けなくなるという矛盾を感じ取ったのである。
「私がこだわったプロとして生き様。それができなくなったのです」
究極のプロ道を究めた鈴木氏らしいといえばらしい決断だが、歴代ナンバーワンの盗塁成功確率.829を誇る個性あふれる足のスペシャリストが、球界からいなくなるのは、あまりに寂しい。
あなたのような代走の専門家が、また出てきますかね?
「僕みたいなスペシャリストは、もう難しいかもしれませんが、出てきて欲しいですね」
鈴木氏は、今、後継者を育てるための一歩を静かに踏み出している。