西武、オリックスでプレーした“ユーティリティープレーヤー”原拓也が引退決意
西武、オリックスで活躍した原拓也内野手(32)が現役引退を決断した。今オフにオリックスから戦力外通告を受け、12球団トライアウトに参加したが、獲得球団はなくユニホームを脱ぐことになった。通算673試合に出場、打率.223、6本塁打、76打点。西武時代の2011年には球団新記録の51犠打をマークした。内野なら捕手以外全てのポジションを守るユーティリティープレーヤーが10年間の現役生活に別れを告げた。
引退を決めた原に未練はなかった。
「チームに必要とされなくなったらユニホームを脱がないといけない。球団から呼ばれた時にはある程度、心は決まっていたので。厳しいポジションで今までやれた。今まで出会った首脳陣、チームメートに感謝しています」
ここまでのプロ野球人生は決して平坦な道のりではなかった。守備固め、代打、代走――。いわゆる“便利屋”だ。だが、1年1年に勝負をかけてきた自負がある。
「周りからは結構、ユーティリティーと言われますが、自分の中では毎年レギュラーを獲る一心でした。そこで満足するようなプロ野球選手は誰一人としていないと思います」
プロで生き抜く術を学んだ西武時代、「本当に毎日が勝負、厳しい環境だった」
東海大相模高では川端(オリックス)とクリーンアップを組み強打の内野手として活躍。関東学院大に進学するいきなり1年春にベストナインを獲得。4年時には4番を務め強打の遊撃手としてプロの注目を浴びた。2006年に大学・社会人ドラフトで西武から4巡目指名を受け入団。ある程度、プロでやっていく自信はあったが、入団後にそれは覆された。内野手には二塁に片岡、遊撃に中島、そして三塁には中村と西武黄金期を支えた鉄壁の3人が君臨していた。
「すぐにやばいと思いました(笑)。年齢も近いしこの3人に勝たないと試合には出られない。片岡さんの足、中島さんの打撃、走塁、中村さんの長打。もう、どうしようかなって感じでした」
ライオンズで1軍に定着するためには自身のスタイルを変えるしかなかった。打撃では長打を捨て進塁打、バントなど小技を磨き、守備は三塁、二塁、一塁と全てを守れるように徹底して鍛え抜いた。当時、2軍の野手総合コーチの田辺徳雄氏からはつなぎ役、守備のイロハをたたき込まれた。
「西武時代は本当に毎日が勝負、厳しい環境だった。周りは勝って当たり前と思っているし、1試合も負けられない。一つのミスで2軍に落ちると思って毎日必死でした」
だが、2012年の秋季キャンプ中にオリックスへトレード移籍が決まる。
熱い気持ちでぶつかり合ったオリックス時代、「優勝を目指したかった」
「トレードに出されるってことはそういうこと。でも、また違った雰囲気のチームで野球ができたことは自分にとって大きかった」
同級生の坂口(現ヤクルト)、大引(現ヤクルト)、川端、横山(現楽天ブルペン捕手)と出会い、平野恵、糸井(現阪神)、後に加わった小谷野、西武時代のチームメイトの中島ら個性の強い選手らが集まる独特の雰囲気が肌にあった。
だが、これまで優勝を宿命づけられた西武と違い、Bクラスの常連だったオリックス入りは戸惑いもあった。試合に負けても笑っている選手、レギュラーで出ている主力がベンチではなくロッカールームにいる現状。これには黙っていられなかった。
「自分は嫌われてもいい。ダメなことはダメと。特にこれからチームを背負っていく若い選手には本当に怒った。やっぱり試合に勝ちたいし、優勝を目指したかった」
熱い気持ちを正面からぶつけ、とことん話し合う。試合後には若手を誘い食事に出かけるなどプライベートではいい兄貴分。そんな原のことを誰一人、悪く言う選手はいなかった。
一番の思い出、今後の夢は?
一番思い出に残っているのはオリックス時代の2014年の10・2決戦。ゲーム差0で優勝争いを繰り広げていたソフトバンク戦(ヤフオクドーム)。1点ビハインドの7回。2死二塁の場面で代打で登場すると一、二塁間を破る同点タイムリーを放ったが、結果的には延長サヨナラ負けで優勝は逃した。
「この年はチームのムードも凄いよかった。周りは誰も優勝争いするなんて思ってなかったでしょ? そんな中で全員が一つになってソフトバンクをあと一歩まで追いつめた。本当はあそこで優勝していれば、またチームも変わっていたけど、それはいい思い出です」
今後のビジョンはまだはっきりとしていないが、将来的な目標は福祉関係の職につくことだという。
「僕は子供が好きなので。保育園、幼稚園の今の現状はどうなのかなと。野球以外にも色々なことを学んでこれからの人生を考えたい」
地元・神奈川に戻り経営コンサルを学びながら、大きな夢の実現に向け歩み出すつもりだ。
西武、オリックスで活躍した原拓也内野手(32)が現役引退を決断した。今オフにオリックスから戦力外通告を受け、12球団トライアウトに参加したが、獲得球団はなくユニホームを脱ぐことになった。通算673試合に出場、打率.223、6本塁打、76打点。西武時代の2011年には球団新記録の51犠打をマークした。内野なら捕手以外全てのポジションを守るユーティリティープレーヤーが10年間の現役生活に別れを告げた。
引退を決めた原に未練はなかった。
「チームに必要とされなくなったらユニホームを脱がないといけない。球団から呼ばれた時にはある程度、心は決まっていたので。厳しいポジションで今までやれた。今まで出会った首脳陣、チームメートに感謝しています」
ここまでのプロ野球人生は決して平坦な道のりではなかった。守備固め、代打、代走――。いわゆる“便利屋”だ。だが、1年1年に勝負をかけてきた自負がある。
「周りからは結構、ユーティリティーと言われますが、自分の中では毎年レギュラーを獲る一心でした。そこで満足するようなプロ野球選手は誰一人としていないと思います」
プロで生き抜く術を学んだ西武時代、「本当に毎日が勝負、厳しい環境だった」
東海大相模高では川端(オリックス)とクリーンアップを組み強打の内野手として活躍。関東学院大に進学するいきなり1年春にベストナインを獲得。4年時には4番を務め強打の遊撃手としてプロの注目を浴びた。2006年に大学・社会人ドラフトで西武から4巡目指名を受け入団。ある程度、プロでやっていく自信はあったが、入団後にそれは覆された。内野手には二塁に片岡、遊撃に中島、そして三塁には中村と西武黄金期を支えた鉄壁の3人が君臨していた。
「すぐにやばいと思いました(笑)。年齢も近いしこの3人に勝たないと試合には出られない。片岡さんの足、中島さんの打撃、走塁、中村さんの長打。もう、どうしようかなって感じでした」
ライオンズで1軍に定着するためには自身のスタイルを変えるしかなかった。打撃では長打を捨て進塁打、バントなど小技を磨き、守備は三塁、二塁、一塁と全てを守れるように徹底して鍛え抜いた。当時、2軍の野手総合コーチの田辺徳雄氏からはつなぎ役、守備のイロハをたたき込まれた。
「西武時代は本当に毎日が勝負、厳しい環境だった。周りは勝って当たり前と思っているし、1試合も負けられない。一つのミスで2軍に落ちると思って毎日必死でした」
だが、2012年の秋季キャンプ中にオリックスへトレード移籍が決まる。
熱い気持ちでぶつかり合ったオリックス時代、「優勝を目指したかった」
「トレードに出されるってことはそういうこと。でも、また違った雰囲気のチームで野球ができたことは自分にとって大きかった」
同級生の坂口(現ヤクルト)、大引(現ヤクルト)、川端、横山(現楽天ブルペン捕手)と出会い、平野恵、糸井(現阪神)、後に加わった小谷野、西武時代のチームメイトの中島ら個性の強い選手らが集まる独特の雰囲気が肌にあった。
だが、これまで優勝を宿命づけられた西武と違い、Bクラスの常連だったオリックス入りは戸惑いもあった。試合に負けても笑っている選手、レギュラーで出ている主力がベンチではなくロッカールームにいる現状。これには黙っていられなかった。
「自分は嫌われてもいい。ダメなことはダメと。特にこれからチームを背負っていく若い選手には本当に怒った。やっぱり試合に勝ちたいし、優勝を目指したかった」
熱い気持ちを正面からぶつけ、とことん話し合う。試合後には若手を誘い食事に出かけるなどプライベートではいい兄貴分。そんな原のことを誰一人、悪く言う選手はいなかった。
一番の思い出、今後の夢は?
一番思い出に残っているのはオリックス時代の2014年の10・2決戦。ゲーム差0で優勝争いを繰り広げていたソフトバンク戦(ヤフオクドーム)。1点ビハインドの7回。2死二塁の場面で代打で登場すると一、二塁間を破る同点タイムリーを放ったが、結果的には延長サヨナラ負けで優勝は逃した。
「この年はチームのムードも凄いよかった。周りは誰も優勝争いするなんて思ってなかったでしょ? そんな中で全員が一つになってソフトバンクをあと一歩まで追いつめた。本当はあそこで優勝していれば、またチームも変わっていたけど、それはいい思い出です」
今後のビジョンはまだはっきりとしていないが、将来的な目標は福祉関係の職につくことだという。
「僕は子供が好きなので。保育園、幼稚園の今の現状はどうなのかなと。野球以外にも色々なことを学んでこれからの人生を考えたい」
地元・神奈川に戻り経営コンサルを学びながら、大きな夢の実現に向け歩み出すつもりだ。