俳優の石原裕次郎さんの右腕として、「コマサ」の愛称でファンにも親しまれた石原プロモーション元専務の小林正彦(こばやし・まさひこ)さんが10月30日、虚血性心不全のため死去していたことが3日、分かった。80歳だった。石原プロの経営を支え、1968年の映画「黒部の太陽」以降、2011年に退社するまで、ほぼ全ての作品の製作に携わった“大番頭”。派手なアクションシーンや大規模なイベントで同プロを躍進させた。 石原軍団を支え続けた豪腕「コマサ」が天国へと旅立った。石原プロ関係者によると、小林さんは30日早朝に外出先で倒れて都内の病院へ搬送され、息を引き取った。関係者によると、糖尿病や心筋梗塞などの持病はあったものの、最近は元気で入院などもしていなかったという。 小林さんは、裕次郎さんが最も信頼していた人物でファンにも親しまれた。日活撮影所時代の映画製作の仕切りぶりに惚れ込み、自身の担当に指名した。裕次郎さんが日活を独立し、1963年に石原プロモーションを設立してからは交流は途絶えていたが、68年公開の映画「黒部の太陽」が2人を再び結びつける。 ダム工事の出水シーンの撮影が難航したことに業を煮やした裕次郎さんが「コマサを呼べ!」と大号令。小林さんは当時日活社員。「五社協定」で他社の仕事を禁止されていた当時の状況を考えると、異例の出来事だった。小林さんはそのまま石原プロに移り、以降の映画・ドラマのほぼ全ての製作に関与。経営面の最高責任者として手腕を発揮した。 ドラマ「西部警察」などで派手な爆破シーンを見せたのは小林さんの発案。2009年の裕次郎さんの二十三回忌法要は、国立競技場に菩提(ぼだい)寺の総持寺の本堂を再現し、11万6862人のファンを集めた。また石原プロ名物の「炊き出し」を指揮したのも小林さん。裕次郎さんを筆頭とした石原軍団の豪快なイメージ戦略を成功させた。 裕次郎さんが晩年、がんで闘病した際も常に寄り添った。兄の石原慎太郎氏(84)らの反対を押し切り、がんを告知しなかった。親しい関係者には「がんだと突きつけるのは酷だと思った。でも、本人はがんだと分かっていたはず。それなのに、何も言わずに自分の全てを任せてくれた」と語っていたという。裕次郎さんの最期も家族と一緒にみとった。 11年の東日本大震災の炊き出しを最後に、健康上の理由で石原プロを退社。小林さんは常々「俺は裏方の人間だ」と話し、「死んでも派手なことはやるな」と話していたという。本人の意思で葬儀は2日に親族のみで行われ、偲ぶ会なども開催しないという。最後まで裏方としての本分を全うしながら静かに逝った。
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