ここ数年、プロレス界で“ひとり勝ち”と言われていた新日本プロレスに、2016年の年明け早々から激震が起こった。
棚橋弘至と並ぶ団体の顔であった中邑真輔、さらにはトップ外国人レスラーであるAJスタイルズ、カール・アンダーソン、ドク・ギャローズが次々と新日本退団を表明し、世界最大のプロレス団体であるアメリカのWWEへ移籍。
2月末には、DDTと新日本、史上初の2団体同時所属選手として活躍してきた、“ゴールデン・スター”飯伏幸太までもが両団体との契約を解消したのだ。
合計5人ものトップレスラーの離脱。プロ野球でいえば、クリーンナップの一角を務める生え抜きのスター選手と、外国人助っ人の大半、さらに近未来のエースが一気に抜けてしまったようなものだ。業界ナンバーワンの選手層を誇る新日本にとっても、痛手でないわけがない。
新しいファンの間に広がる不安と胸騒ぎ。
いまのところ観客数減など目立った影響は出ていないが、ファンの間では「新日本はどうなってしまうのか」という不安と胸騒ぎが、静かに広がっているようだ。
無理もない。いまの新日本は、ここ数年でプロレスが好きになった、キャリアの浅いファンが中心。彼らにとって、応援していたレスラーがある日突然に目の前のリングから消えてしまうことなど、初めての経験なのだから。
はたして、このままWWEという巨大な波に飲み込まれてしまうのか? いや、新日本が本当の強さを見せるのは、ここからだ。'05年に柴田勝頼が退団した際「辞めることが新日本だ」とコメントしたように、何度も選手離脱を経験し、その都度ピンチに陥りながらも再生を繰り返し、44年もの間続いてきたのが新日本プロレスなのだから。
これまでどのようにしてピンチを切り抜け、新たな繁栄の時代を築いてきたのか。その歴史を紐解くことで、今後の新日本を見据えてみよう。
1984年、選手大量離脱の危機に登場した闘魂三銃士。
新日本44年の歴史で最大のピンチといえば、'84年の選手大量離脱時だろう。
'80年代初頭はプロレスブームが起こり、毎週金曜夜8時に放送された『ワールドプロレスリング』の視聴率は平均25%を記録。しかしながら、猪木の個人的な事業に絡む不透明なカネの流れ等から、団体内に不満が噴出。
'83年8月に大スター、タイガーマスク(佐山サトル)が突然引退を表明したのを皮切りに、'84年春には前田日明、藤原喜明、?田延彦らが新団体UWFに移籍。さらに同年9月には長州力率いる維新軍全員を含む総勢13名が大量離脱し、ジャパンプロレスを設立。ライバル団体である全日本プロレスへと主戦場を移した。
この大ピンチに新日本は、謎の怪覆面集団「ストロングマシン軍団」を投入し急場をしのぐと、翌'85年には全日本から大物外国人ブルーザー・ブロディを引き抜いた。さらに'86年には前田らUWF、'87年には長州軍団を復帰させ、観客動員とテレビ視聴率のテコ入れを図るが、人気回復にはいたらず。
'88年に入ると前田らが新生UWFを旗揚げして社会現象と呼ばれるブームを起こす中、新日本はテレビ放映もゴールデンタイムを外れ、ついに団体存亡の危機に陥った。
闘魂三銃士は、大量離脱で取り残された若手だった。
しかし、ここで救世主が現れる。武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の“闘魂三銃士”だ。彼ら3人は共に'84年春に新日本へ入団。あの大量離脱時に取り残された名もなき若手だったが、先輩レスラーがごっそりいなくなった中、新人時代から伸び伸びと試合を行い、若いうちから海外修行に出されるなど、チャンスにも恵まれた。
その3人が海外遠征から帰国し、'90年4月に勢ぞろいすると人気が爆発。新たなファンを大量に生み出し、'90年代に新日本第2の黄金期を作り上げたのだ。
棚橋弘至は、暗黒期に差した一筋の光だった。
新日本の2度目の危機は、黄金の'90年代が終わったあとに訪れた。
2001年に闘魂三銃士の一角、橋本真也が引退騒動のゴタゴタを経て、新団体ZERO-ONEを作ることで独立。さらに2002年1月には、新日本のオーナー猪木が推し進める格闘技路線に反発し、人気ナンバーワンの武藤敬司が離脱。このときは小島聡、ケンドー・カシンという人気レスラーだけでなく、新日本の主力フロントスタッフ5名を引き連れての全日本への移籍だったため、ハードとソフト両面で新日本に大打撃を与えた。
この武藤一派離脱直後、新日本に一筋の光が差し込む。それが棚橋弘至の存在だ。
2002年2月1日の新日本プロレス札幌大会で、猪木がリングに上がり、主力選手たちにこの危機へ立ち向かう覚悟のほどを問う、通称「猪木問答」が行われた。
猪木が中西学、永田裕志、鈴木健三(現・KENSO)、棚橋弘至の4人ひとりひとりに対し、「おめぇは怒ってるか? 何に対してだ!」と迫る中、棚橋は質問には答えず「俺は、新日本のリングで、プロレスをやります!」と宣言。さらに猪木がみんなにビンタを見舞うと、棚橋だけは張られたあと、猪木をまっすぐ見据えて睨みつけた。
このあと数年間、新日本は"暗黒期"と呼ばれるほど低迷するが、棚橋は2006年に初めて新日本のトップの証であるIWGPヘビー級のベルトを腰に巻くと、“猪木イズム”との決別を推し進め、ついに新日本プロレスに前代未聞の繁栄時代をもたらすことに成功したのだ。
闘魂三銃士と棚橋弘至には共通点がある。
このように、これまで新日本プロレスは、中邑真輔やAJスタイルズの離脱どころではない大ピンチを乗り越えてきた。しかし、これをもって「新日本は離脱者が出ても、必ず新しいスター選手が現れてきたから大丈夫」と、単純に楽観視することはできないだろう。
1984年と2002年、2度の大量離脱を救った闘魂三銃士や棚橋弘至のようなレスラーは、まさに10年、20年に一度の逸材であり、そう簡単に出てくるものではないからだ。
しかし逆に言えば、トップレスラーが離脱したピンチでなければ、さらなる繁栄をもたらす本当の救世主、ニュースターは現れないともいえる。
闘魂三銃士と棚橋弘至、どちらも共通するのは、どん底の時代を経験しながらも未来を信じ、「これからは俺の時代だ」と、自分を信じることができる人間であったということだ。
これは「世の中が乱れ、混乱したときこそ俺の出番!」と言った、かつての猪木も同様。
それだけの危機感、覚悟、そしてある種のナルシシズムを持ったレスラーは、はたして現れるのか?
プロレス界の未来は、そこにかかっている。いまこそ、新日本プロレスを刮目して見よ!
棚橋弘至と並ぶ団体の顔であった中邑真輔、さらにはトップ外国人レスラーであるAJスタイルズ、カール・アンダーソン、ドク・ギャローズが次々と新日本退団を表明し、世界最大のプロレス団体であるアメリカのWWEへ移籍。
2月末には、DDTと新日本、史上初の2団体同時所属選手として活躍してきた、“ゴールデン・スター”飯伏幸太までもが両団体との契約を解消したのだ。
合計5人ものトップレスラーの離脱。プロ野球でいえば、クリーンナップの一角を務める生え抜きのスター選手と、外国人助っ人の大半、さらに近未来のエースが一気に抜けてしまったようなものだ。業界ナンバーワンの選手層を誇る新日本にとっても、痛手でないわけがない。
新しいファンの間に広がる不安と胸騒ぎ。
いまのところ観客数減など目立った影響は出ていないが、ファンの間では「新日本はどうなってしまうのか」という不安と胸騒ぎが、静かに広がっているようだ。
無理もない。いまの新日本は、ここ数年でプロレスが好きになった、キャリアの浅いファンが中心。彼らにとって、応援していたレスラーがある日突然に目の前のリングから消えてしまうことなど、初めての経験なのだから。
はたして、このままWWEという巨大な波に飲み込まれてしまうのか? いや、新日本が本当の強さを見せるのは、ここからだ。'05年に柴田勝頼が退団した際「辞めることが新日本だ」とコメントしたように、何度も選手離脱を経験し、その都度ピンチに陥りながらも再生を繰り返し、44年もの間続いてきたのが新日本プロレスなのだから。
これまでどのようにしてピンチを切り抜け、新たな繁栄の時代を築いてきたのか。その歴史を紐解くことで、今後の新日本を見据えてみよう。
1984年、選手大量離脱の危機に登場した闘魂三銃士。
新日本44年の歴史で最大のピンチといえば、'84年の選手大量離脱時だろう。
'80年代初頭はプロレスブームが起こり、毎週金曜夜8時に放送された『ワールドプロレスリング』の視聴率は平均25%を記録。しかしながら、猪木の個人的な事業に絡む不透明なカネの流れ等から、団体内に不満が噴出。
'83年8月に大スター、タイガーマスク(佐山サトル)が突然引退を表明したのを皮切りに、'84年春には前田日明、藤原喜明、?田延彦らが新団体UWFに移籍。さらに同年9月には長州力率いる維新軍全員を含む総勢13名が大量離脱し、ジャパンプロレスを設立。ライバル団体である全日本プロレスへと主戦場を移した。
この大ピンチに新日本は、謎の怪覆面集団「ストロングマシン軍団」を投入し急場をしのぐと、翌'85年には全日本から大物外国人ブルーザー・ブロディを引き抜いた。さらに'86年には前田らUWF、'87年には長州軍団を復帰させ、観客動員とテレビ視聴率のテコ入れを図るが、人気回復にはいたらず。
'88年に入ると前田らが新生UWFを旗揚げして社会現象と呼ばれるブームを起こす中、新日本はテレビ放映もゴールデンタイムを外れ、ついに団体存亡の危機に陥った。
闘魂三銃士は、大量離脱で取り残された若手だった。
しかし、ここで救世主が現れる。武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の“闘魂三銃士”だ。彼ら3人は共に'84年春に新日本へ入団。あの大量離脱時に取り残された名もなき若手だったが、先輩レスラーがごっそりいなくなった中、新人時代から伸び伸びと試合を行い、若いうちから海外修行に出されるなど、チャンスにも恵まれた。
その3人が海外遠征から帰国し、'90年4月に勢ぞろいすると人気が爆発。新たなファンを大量に生み出し、'90年代に新日本第2の黄金期を作り上げたのだ。
棚橋弘至は、暗黒期に差した一筋の光だった。
新日本の2度目の危機は、黄金の'90年代が終わったあとに訪れた。
2001年に闘魂三銃士の一角、橋本真也が引退騒動のゴタゴタを経て、新団体ZERO-ONEを作ることで独立。さらに2002年1月には、新日本のオーナー猪木が推し進める格闘技路線に反発し、人気ナンバーワンの武藤敬司が離脱。このときは小島聡、ケンドー・カシンという人気レスラーだけでなく、新日本の主力フロントスタッフ5名を引き連れての全日本への移籍だったため、ハードとソフト両面で新日本に大打撃を与えた。
この武藤一派離脱直後、新日本に一筋の光が差し込む。それが棚橋弘至の存在だ。
2002年2月1日の新日本プロレス札幌大会で、猪木がリングに上がり、主力選手たちにこの危機へ立ち向かう覚悟のほどを問う、通称「猪木問答」が行われた。
猪木が中西学、永田裕志、鈴木健三(現・KENSO)、棚橋弘至の4人ひとりひとりに対し、「おめぇは怒ってるか? 何に対してだ!」と迫る中、棚橋は質問には答えず「俺は、新日本のリングで、プロレスをやります!」と宣言。さらに猪木がみんなにビンタを見舞うと、棚橋だけは張られたあと、猪木をまっすぐ見据えて睨みつけた。
このあと数年間、新日本は"暗黒期"と呼ばれるほど低迷するが、棚橋は2006年に初めて新日本のトップの証であるIWGPヘビー級のベルトを腰に巻くと、“猪木イズム”との決別を推し進め、ついに新日本プロレスに前代未聞の繁栄時代をもたらすことに成功したのだ。
闘魂三銃士と棚橋弘至には共通点がある。
このように、これまで新日本プロレスは、中邑真輔やAJスタイルズの離脱どころではない大ピンチを乗り越えてきた。しかし、これをもって「新日本は離脱者が出ても、必ず新しいスター選手が現れてきたから大丈夫」と、単純に楽観視することはできないだろう。
1984年と2002年、2度の大量離脱を救った闘魂三銃士や棚橋弘至のようなレスラーは、まさに10年、20年に一度の逸材であり、そう簡単に出てくるものではないからだ。
しかし逆に言えば、トップレスラーが離脱したピンチでなければ、さらなる繁栄をもたらす本当の救世主、ニュースターは現れないともいえる。
闘魂三銃士と棚橋弘至、どちらも共通するのは、どん底の時代を経験しながらも未来を信じ、「これからは俺の時代だ」と、自分を信じることができる人間であったということだ。
これは「世の中が乱れ、混乱したときこそ俺の出番!」と言った、かつての猪木も同様。
それだけの危機感、覚悟、そしてある種のナルシシズムを持ったレスラーは、はたして現れるのか?
プロレス界の未来は、そこにかかっている。いまこそ、新日本プロレスを刮目して見よ!