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Gキラー川崎憲次郎さん、地元・大分“釣り師”で“町おこし”

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「川崎憲次郎の釣りガール養成講座」の収録で故郷の海からマダイを釣り上げてポーズ(フェイスブックから)

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故郷を熱く語る川崎さん。「釣り師」「町おこ師」の顔を持つ(カメラ・相川 和寛=東京・天王洲で)

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00年、中日にFA移籍。星野監督も背負ったエースナンバーを託された

 かつて巨人キラーとして君臨した、元プロ野球ヤクルトのエース・川崎憲次郎さん(47)は、故郷・大分で“釣り師”になっていた。地元ケーブルテレビ局ではレギュラー番組を持ち、腕前を披露。地域の振興に一役買う一方、自然と食に恵まれた大分の魅力を内外に発信するため“町おこ師”としても奔走している。4日に膵臓(すいぞう)がんで死去した星野仙一さん(享年70)との思い出を含めた自らの野球人生を振り返り、夢を語った。

 川崎さんが“釣り師”として出演を始めた番組名は「釣りガール養成講座」。故郷のケーブルテレビ佐伯で2015年にスタートし、何と九州の番組コンクールで優秀賞を受賞するほど好評を博した。現在は「川崎漁業組合」と名前を変え、CSスポーツチャンネル「GAORA」で全国放送もされている。

 「最初は釣り好きの女性を増やして街を活性化させようと。魚をさばいて料理までやるから、花嫁修業にもなる。釣りは小さい頃からやっていたしね。海が近いので、刺し身が食べたかったら釣ってさばく。晩飯を取りに海に行くって感覚。海が“天然のスーパー”だから(笑い)」

 月の半分を佐伯で過ごす。番組収録のほか野球教室、講演、イベントなどを行いながら「かぼす特命大使」として名産品PRにも協力。故郷の活性化を促す活動に関わっている。

 「佐伯市の人口は年間1000人ぐらいずつ減っているんです。温泉はないけど、山、海、川の自然があって食い物はうまい。魚が苦手な東京の人に地元の魚を食べさせたら『おいしい』と言ってくれて自信が持てました。いいところを生かすために何かしようと」

 協力してくれる人が各界から集まり、“チーム憲次郎”を結成。アイデアを出し合いながら取り組んでいる。町おこしを思い立ったきっかけは何なのか。

 「プロ野球選手という小さい頃からの夢をかなえてしまったから、やめた時に何をしていいか分からなかったんです、正直。知らない人と話したりするのも苦手だったし。だから、何かを変えようとフェイスブックを始めたら、いろんな人とつながって視野が広がった。僕も夢を持たなきゃ、と思った時に、自分の強みを考えたら、大分弁を話せることだった。じゃあ一度、自分の生まれ育った原点に戻ってみようと。それが一つのきっかけでした」

 88年のドラフト1位指名で巨人と競合の末、ヤクルトに入団。1年目の初勝利、初完封はいずれも巨人から。16年間での88勝中、3分の1の29勝が巨人からとキラーぶりが際立った。

 「実は、大の巨人ファンでした。小学生の頃は原さんに憧れ、ポスターを部屋の壁や天井にまで貼っていたほど。テレビで見ていたスターと対戦するわけですから。最初の頃は投げるたびに興奮していましたね」

 打倒・巨人の思いに火がついたのは90年、吉村にリーグ優勝を決めるサヨナラ本塁打を打たれてからだ。

 「あの悔しさは今でも忘れないですよ。負けたら優勝が決まる試合。あそこで打たれたのは恥ずかしい。別に憎いとか嫌いなわけじゃなく、ただ、強いから勝ちたかっただけ。でも、巨人戦は本当に楽しかった」

 92年は肘痛で登板なし。優勝に貢献できなかったが、翌年10勝を挙げ、西武との日本シリーズで2勝、シリーズMVPに輝いた。

 「92年の日本シリーズはスタンドで見ていました。悔しい思いと投げられる喜びを持って臨んだだけに、翌年の優勝はうれしかった。当時の西武は本当に強かったですから。2勝した試合は自分も驚くほど調子が良く、現役生活ベスト3に入る投球でした。実はシリーズ中、ずっと38度の熱があったんです。点滴を打っても熱が下がらない。それが、優勝してビールかけをやって六本木に飲みに行ったら治った(笑い)」

 00年オフ、FA権を行使した際、中日に口説き入れてくれたのが星野監督。訃報に絶句した。

 「ニュースを見て驚きました。あまりにも突然で、ウソだろ、と。あの時、いち早くオファーをくれたRソックスからはオーナー直筆の手紙が届き、もともとあったメジャー挑戦の気持ちが強くなった。でも、中日も同じくらい早くオファーをくれた。悩みに悩んで寝られない日々が続きましたが、最後は『巨人だけは倒してくれ』という星野さんの言葉が決め手になりました」

 しかし、オープン戦で右肩痛を発症。激痛に悩まされ、3年間をリハビリに費やした。01年限りで退任した星野監督の役に立てなかったことを悔やんでいる。

 「本当に申し訳ないです、と謝りに行った時も『俺もやったことがあるから。あれはつらいよな』と言ってくださって。そこまで僕は巨人戦29勝(24敗)。星野さんの35勝を目の前で抜きたかったんですが…。引退後、球場でお会いした時には『憲次郎、よく来たな』と声を掛けてくださって。本当に優しい方でした」

 星野さんともう一人、野村監督にも感謝している。恩師から教わった「何か新しいことをやってみる」「古い物にしがみつかない」「知らない人に話しかけてみる」を“奇跡を起こす3か条”とし、胸に刻んでいる。

 「直球で空振り三振を取るのが僕の理想のスタイル。だから、野村監督に『シュートを覚えろ』と言われてもずっと無視していた。投げ始めたのは97年。1球で内野ゴロが取れるようになったから三振が取れないし、つまんねーな、と思っていたんですが、そのうちバットを折られた打者の顔を見ることが楽しくなった。しかも、球数を投げなくて済む。最初は嫌だったけど、タイトルを取れたり、今までにないことが起きた。何かを捨てることが新たな出会いにつながった。だから、変わらないと、という思いが強い。地元のことに関しても、野村さんの言葉を実践しているんです」

 今後の夢とは。

 「世界から注目される大分を作ること。それだけの素質はありますから。日本では大分はそれなりのイメージしかないですが、海では先入観は全くない。人口を減らさず、増やすために何ができるか。高齢者に働く場を与えられるような仕組みも作れればいいな、と思っています」(取材・田中 俊光)

 ◆川崎 憲次郎(かわさき・けんじろう)1971年1月8日、大分県佐伯市生まれ。47歳。津久見高3年時の88年春、夏の甲子園でいずれもベスト8。同年ドラフト1位でヤクルト入団。1年目から先発で4勝を挙げ、90年12勝、91年14勝。92年は登板なしに終わるが、93年に10勝して優勝に貢献、カムバック賞を受賞。西武との日本シリーズでは2勝を挙げてMVP。98年に17勝して最多勝&沢村賞。2000年オフにFAで中日移籍。右肩を痛め、04年開幕戦で4年ぶりに登板も、わずか3試合の登板にとどまり、引退。13年から2年間、ロッテでブルペンコーチ、投手コーチ。通算237試合、88勝81敗2セーブ、防御率3.69。

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