得意のプレゼンで自身の置かれた立場を説明する江尻慎太郎さん
江尻さんの現役時代の勇姿(左上は日本ハム時代の2007年、左下は横浜時代の10年、右はソフトバンク時代の13年)
江尻さんの涙の会見を報じるスポーツ報知(2010年4月3日付 北海道版)
最速153キロをマークし、日本ハム、横浜・DeNA、ソフトバンクと3球団を渡り歩き、13年間活躍した江尻慎太郎さん(40)は現在、デジタルマーケティング業界のビジネスマンとして新たな人生を切り開いている。
「ソフトバンク コマース&サービス」に入社して3年目。江尻さんは「(業務内容は)ITソフトウェアの卸しです。クラウド型のデジタルマーケティングツールを扱っています。企業の売り上げに貢献できるようなツールを仕入れて、提案して売っています」と爽やかな笑顔で説明してくれた。数多くある取引先の中、古巣ホークスの営業も取引相手。イベントや集客、チケット販売に効果的なソーシャルメディア管理ツールを提供している。
江尻さんがソフトバンクから戦力外通告を受けたのは14年10月だった。球団から戦力外通告を受け、関東地区担当スカウトへの転身を提案された。会議室を出て記者会見場に向かおうとすると、別の球団取締役に部屋に呼び戻され、意外なオファーを受けた。「ソフトバンクグループに推薦したいと思っている。考えてくれないか」。
戦力外通告と同時に2つのオファーを受けた江尻さんは、その時は現役続行しか頭になかった。9日後の静岡・草薙でのトライアウトでは最速145キロをマークし、打者4人をパーフェクトに抑えた。その3日後に電話が鳴った。他球団からのオファーと思いきや、ホークスの編成部長からだった。「トライアウト後に11球団に獲得の意思を確認してくれていたんです」。他球団に獲得意思がないことを知り引退を決断した。そのお陰でファン感謝イベントで引退セレモニーを行うこともできた。知らないところで動いてくれた古巣の配慮に感謝した。
「次の仕事を進めさせてください」。スカウトかビジネスマンか―。同時進行でSPI試験や面接を受けた。「コマース&サービス」と会社名を聞いてもピンとこなかった。「『はい?』って感じですよね。流通、卸業って聞いても頭の中はクエスチョンだらけでした」。それでも球界の枠を離れビジネスマンへの転身を決めたのには明確な理由があった。
「江尻が野球界を離れて活躍すればするほど、野球界における江尻の価値も同時に上がるんだよ」。ソフトバンクグループへの推薦を申し出た球団取締役のセリフだった。江尻さんは「この言葉がほぼ決め手でしたね」。
翌年2月に入社、ビジネスマンとしての第一歩は衝撃的だった。「入社して名刺の渡し方もおぼつかないうちにミーティングに出させられた」。メーカーとの会議に放り込まれたのだ。「1時間のうち58分は何言っているか分からない。あいさつ以外全部みたいな。聞き取れた3文字アルファベットをひたすらメモって、(会議から)帰ってからググる。そういった日々でしたね」。ネットマーケティング検定を受検、プレゼンや資料作りのためにエクセルやパワーポイントも身に着けた。
スカウトの方が良かったのでは? そう問いかけると江尻さんは「何回も思いましたよ」と苦笑いした。そんな苦しい日々も必死にくらいついた。「つまらない仕事はたくさんあるけれど、つまらなくしているのは自分自身だと気がつくことが大事なんです。野球も一緒でランニングやトレーニングだって楽しい日もあればつまらない日もあって、すべて自分次第。環境を自分で作っていかないといけないと思っています」。
江尻さんは野球人生でも変化を怖がらなかった。むしろ楽しんだと言っても良いだろう。日本ハムでは東京から札幌への本拠地移転を経験。ベイスターズでは親会社が変わり、トレードも2回経験した。「変化は好きだったですね。(仙台の)田舎育ちが(大学進学で)東京に出てきて。そういう志向だったんでしょうね。新しい土地で新しい自分を作るのが好きだった。トレードは大きいですね。自分の周りの人が“総入れ替え”するので、イメージがお互いない状態で人と真正面から接することができるんです」。日本ハム時代の09年にはシーズンが始まってから2軍で小林繁コーチのフォーム改造指令を受けると即決し、オーバースローからサイドスローに転向。フル回転し日本一に貢献するなど、“変化”を受け入れてきた。
プロ野球選手のセカンドキャリアについて思うことがある。「就職が決まって『やっと安定します』という人がいるんですが、(現役の時に)今までチャレンジしたからこそ生き生きしていた人が、安定するサラリーマンとしてモチベーションを探すことが難しいと思うんです」と説明する。江尻さんの口調は次第に熱を帯びた。「プロ野球は、崖の端っこに立たされて弾丸をよけながらどうやって進むかを考えているようなもの。その向こうに素晴らしいものが待っている、それが見えているから頑張れる。安定というのは、草原の真ん中で、敵もいません、ただ誰も来ませんというようなもの。それほどつまらないものはないと思うんです」。
江尻さん自身はどのようにモチベーションを維持しているのだろうか。「自分は一生、“プロ野球選手”をやめられないと思うんです。犯罪を犯しても“元プロ野球選手の〇〇”って報道されるし、死んだってそう」と自身の立場を冷静に分析する。「“株式会社プロ野球”という大きな枠の中で、現役プロ野球選手部門を卒業して、現在はビジネスマン部門にいるという感覚です。(その枠組みの中の)現役選手だったら、戦い続けないといけないというモチベーションで今を生きています」と話した。
元プロ野球選手という肩書は一生ついて回る。それを受け入れ、その中で全力を尽くす。「常にこのプライドで戦おうと思っています。『あの人、すごいね。ビジネスマンとして成功している』と言われて『当たり前です。僕、元プロ野球選手ですから』って言いたい」と理想を語った。
がむしゃらに働いたことで、離れたはずの球界との結びつきも強くなった。宮城のKHB東日本放送(テレビ朝日系列)のプロ野球中継での解説の仕事や、スポナビライブでの実況・解説を担当。今年7月には早大の先輩・仁志敏久氏が監督を務めたU―12日本代表のコーチに就任し、台湾でのW杯に出場した。「解説は土日にやっています。原則、副業禁止ですが、会社に不利益にならなければ…、申請して認めてもらっています」。ビジネス業界に導いてくれた球団取締役の言葉を再びかみしめている。「ビジネスマンであるが故にオファーが増える不思議なスパイラルが起きています」。4月からは東日本放送でのスポーツ番組「燃えスポ(仮)」(土曜・後5時)のメインパーソナリティーを務めることも決まった。
現役生活の悔いを聞いてみた。「いくらでもありますよ。あとちょっとで200勝だったのになぁとか…」。通算28勝の江尻さんは冗談を言いながらも一瞬、真剣な表情になった。「カズミに言われたんです。『お前は40歳までやれたのに、最後の最後までスピードにこだわった』と…」。仕事で一緒になったかつてのチームメートで同級生の斉藤和巳さんから投げかけられた言葉を思い起こしていた。現役時代、斉藤さんにスピードだけでは通用しなくなるとシフトチェンジを勧められていた。江尻さんは言う。「当時のライバルはサファテ、五十嵐、千賀、岩崎ですからね。150キロを投げないと勝てないという思いがありました。(自分の)名前を上げるとしたら『江尻は元気な球を投げているな』っていう…。だからこそ存在感を見せないといけなかった」とスピードにこだわり続けた理由を明かした。そして静かに言葉をつなげた。「後悔しているとすればそこかな。最後のチェンジのギアは失敗したかもしれない」。
それでも全力で走り抜けた13年間の現役生活は色あせない。「プロ野球選手のセカンドキャリアには可能性があると思っている。“株式会社プロ野球”の広報担当として頑張って行きたい」。前をしっかりと見据え“変化”を恐れることなく、“生涯現役”で発信し続けることを誓う。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆江尻 慎太郎(えじり・しんたろう)1977年4月30日、宮城・仙台市生まれ。40歳。仙台二ではエースとして3年春の県大会優勝、東北大会準優勝も甲子園出場なし。2年浪人し早大に進学。1年秋の早慶戦で初勝利を挙げ「小宮山2世」と呼ばれる。リーグ通算5勝(6敗)。2001年、ドラフト自由獲得枠で日本ハム入団。3年目の04年に初勝利し5勝を挙げた。07年には中継ぎで42試合登板し自己最多の7勝をマーク。09年にサイドスローに転向し、10年4月に横浜(現DeNA)にトレードで移籍。11年には自己最多の65試合登板し、22ホールド。12年オフにトレードでソフトバンクへ。14年限りで引退。プロ通算277試合、28勝20敗1セーブ53ホールド。防御率4・48。現役時代のサイズは187センチ、77キロ。
江尻さんの現役時代の勇姿(左上は日本ハム時代の2007年、左下は横浜時代の10年、右はソフトバンク時代の13年)
江尻さんの涙の会見を報じるスポーツ報知(2010年4月3日付 北海道版)
最速153キロをマークし、日本ハム、横浜・DeNA、ソフトバンクと3球団を渡り歩き、13年間活躍した江尻慎太郎さん(40)は現在、デジタルマーケティング業界のビジネスマンとして新たな人生を切り開いている。
「ソフトバンク コマース&サービス」に入社して3年目。江尻さんは「(業務内容は)ITソフトウェアの卸しです。クラウド型のデジタルマーケティングツールを扱っています。企業の売り上げに貢献できるようなツールを仕入れて、提案して売っています」と爽やかな笑顔で説明してくれた。数多くある取引先の中、古巣ホークスの営業も取引相手。イベントや集客、チケット販売に効果的なソーシャルメディア管理ツールを提供している。
江尻さんがソフトバンクから戦力外通告を受けたのは14年10月だった。球団から戦力外通告を受け、関東地区担当スカウトへの転身を提案された。会議室を出て記者会見場に向かおうとすると、別の球団取締役に部屋に呼び戻され、意外なオファーを受けた。「ソフトバンクグループに推薦したいと思っている。考えてくれないか」。
戦力外通告と同時に2つのオファーを受けた江尻さんは、その時は現役続行しか頭になかった。9日後の静岡・草薙でのトライアウトでは最速145キロをマークし、打者4人をパーフェクトに抑えた。その3日後に電話が鳴った。他球団からのオファーと思いきや、ホークスの編成部長からだった。「トライアウト後に11球団に獲得の意思を確認してくれていたんです」。他球団に獲得意思がないことを知り引退を決断した。そのお陰でファン感謝イベントで引退セレモニーを行うこともできた。知らないところで動いてくれた古巣の配慮に感謝した。
「次の仕事を進めさせてください」。スカウトかビジネスマンか―。同時進行でSPI試験や面接を受けた。「コマース&サービス」と会社名を聞いてもピンとこなかった。「『はい?』って感じですよね。流通、卸業って聞いても頭の中はクエスチョンだらけでした」。それでも球界の枠を離れビジネスマンへの転身を決めたのには明確な理由があった。
「江尻が野球界を離れて活躍すればするほど、野球界における江尻の価値も同時に上がるんだよ」。ソフトバンクグループへの推薦を申し出た球団取締役のセリフだった。江尻さんは「この言葉がほぼ決め手でしたね」。
翌年2月に入社、ビジネスマンとしての第一歩は衝撃的だった。「入社して名刺の渡し方もおぼつかないうちにミーティングに出させられた」。メーカーとの会議に放り込まれたのだ。「1時間のうち58分は何言っているか分からない。あいさつ以外全部みたいな。聞き取れた3文字アルファベットをひたすらメモって、(会議から)帰ってからググる。そういった日々でしたね」。ネットマーケティング検定を受検、プレゼンや資料作りのためにエクセルやパワーポイントも身に着けた。
スカウトの方が良かったのでは? そう問いかけると江尻さんは「何回も思いましたよ」と苦笑いした。そんな苦しい日々も必死にくらいついた。「つまらない仕事はたくさんあるけれど、つまらなくしているのは自分自身だと気がつくことが大事なんです。野球も一緒でランニングやトレーニングだって楽しい日もあればつまらない日もあって、すべて自分次第。環境を自分で作っていかないといけないと思っています」。
江尻さんは野球人生でも変化を怖がらなかった。むしろ楽しんだと言っても良いだろう。日本ハムでは東京から札幌への本拠地移転を経験。ベイスターズでは親会社が変わり、トレードも2回経験した。「変化は好きだったですね。(仙台の)田舎育ちが(大学進学で)東京に出てきて。そういう志向だったんでしょうね。新しい土地で新しい自分を作るのが好きだった。トレードは大きいですね。自分の周りの人が“総入れ替え”するので、イメージがお互いない状態で人と真正面から接することができるんです」。日本ハム時代の09年にはシーズンが始まってから2軍で小林繁コーチのフォーム改造指令を受けると即決し、オーバースローからサイドスローに転向。フル回転し日本一に貢献するなど、“変化”を受け入れてきた。
プロ野球選手のセカンドキャリアについて思うことがある。「就職が決まって『やっと安定します』という人がいるんですが、(現役の時に)今までチャレンジしたからこそ生き生きしていた人が、安定するサラリーマンとしてモチベーションを探すことが難しいと思うんです」と説明する。江尻さんの口調は次第に熱を帯びた。「プロ野球は、崖の端っこに立たされて弾丸をよけながらどうやって進むかを考えているようなもの。その向こうに素晴らしいものが待っている、それが見えているから頑張れる。安定というのは、草原の真ん中で、敵もいません、ただ誰も来ませんというようなもの。それほどつまらないものはないと思うんです」。
江尻さん自身はどのようにモチベーションを維持しているのだろうか。「自分は一生、“プロ野球選手”をやめられないと思うんです。犯罪を犯しても“元プロ野球選手の〇〇”って報道されるし、死んだってそう」と自身の立場を冷静に分析する。「“株式会社プロ野球”という大きな枠の中で、現役プロ野球選手部門を卒業して、現在はビジネスマン部門にいるという感覚です。(その枠組みの中の)現役選手だったら、戦い続けないといけないというモチベーションで今を生きています」と話した。
元プロ野球選手という肩書は一生ついて回る。それを受け入れ、その中で全力を尽くす。「常にこのプライドで戦おうと思っています。『あの人、すごいね。ビジネスマンとして成功している』と言われて『当たり前です。僕、元プロ野球選手ですから』って言いたい」と理想を語った。
がむしゃらに働いたことで、離れたはずの球界との結びつきも強くなった。宮城のKHB東日本放送(テレビ朝日系列)のプロ野球中継での解説の仕事や、スポナビライブでの実況・解説を担当。今年7月には早大の先輩・仁志敏久氏が監督を務めたU―12日本代表のコーチに就任し、台湾でのW杯に出場した。「解説は土日にやっています。原則、副業禁止ですが、会社に不利益にならなければ…、申請して認めてもらっています」。ビジネス業界に導いてくれた球団取締役の言葉を再びかみしめている。「ビジネスマンであるが故にオファーが増える不思議なスパイラルが起きています」。4月からは東日本放送でのスポーツ番組「燃えスポ(仮)」(土曜・後5時)のメインパーソナリティーを務めることも決まった。
現役生活の悔いを聞いてみた。「いくらでもありますよ。あとちょっとで200勝だったのになぁとか…」。通算28勝の江尻さんは冗談を言いながらも一瞬、真剣な表情になった。「カズミに言われたんです。『お前は40歳までやれたのに、最後の最後までスピードにこだわった』と…」。仕事で一緒になったかつてのチームメートで同級生の斉藤和巳さんから投げかけられた言葉を思い起こしていた。現役時代、斉藤さんにスピードだけでは通用しなくなるとシフトチェンジを勧められていた。江尻さんは言う。「当時のライバルはサファテ、五十嵐、千賀、岩崎ですからね。150キロを投げないと勝てないという思いがありました。(自分の)名前を上げるとしたら『江尻は元気な球を投げているな』っていう…。だからこそ存在感を見せないといけなかった」とスピードにこだわり続けた理由を明かした。そして静かに言葉をつなげた。「後悔しているとすればそこかな。最後のチェンジのギアは失敗したかもしれない」。
それでも全力で走り抜けた13年間の現役生活は色あせない。「プロ野球選手のセカンドキャリアには可能性があると思っている。“株式会社プロ野球”の広報担当として頑張って行きたい」。前をしっかりと見据え“変化”を恐れることなく、“生涯現役”で発信し続けることを誓う。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆江尻 慎太郎(えじり・しんたろう)1977年4月30日、宮城・仙台市生まれ。40歳。仙台二ではエースとして3年春の県大会優勝、東北大会準優勝も甲子園出場なし。2年浪人し早大に進学。1年秋の早慶戦で初勝利を挙げ「小宮山2世」と呼ばれる。リーグ通算5勝(6敗)。2001年、ドラフト自由獲得枠で日本ハム入団。3年目の04年に初勝利し5勝を挙げた。07年には中継ぎで42試合登板し自己最多の7勝をマーク。09年にサイドスローに転向し、10年4月に横浜(現DeNA)にトレードで移籍。11年には自己最多の65試合登板し、22ホールド。12年オフにトレードでソフトバンクへ。14年限りで引退。プロ通算277試合、28勝20敗1セーブ53ホールド。防御率4・48。現役時代のサイズは187センチ、77キロ。