プロ野球の「永久欠番」は野球人にとって大層、名誉なことではあるが、中には伝説めいた「逸話」もある。戦中・戦後の動乱の中、巨人軍で活躍した背番号「4」を記憶するファンは少ない。その外野手は黒沢俊夫といった。病床で「最後は巨人のユニホームを着せて葬ってほしい」と声を振り絞り、シーズン途中にチフスのため他界した。享年33。日本では不吉さを予感させる背番号が、いかにして巨人の永久欠番となったのか。黒沢が巨人の「第14代・4番」に名を刻んだ1946年から70年がたつ。野球賭博や勝敗をめぐる現金授受という愚かな行為によって背番号を汚した巨人の選手たちは、この哀しい物語をどう聞くだろうか。
■伝説の沢村栄治とともに
戦争の影が色濃く残る中、黒沢が思い半ばで息を引き取った経緯は、ノンフィクション作家、小野俊哉の『プロ野球は「背番号」で見よ!』(平凡社新書)に詳しい。
終戦直後の劣悪な衛生環境によって、当時、年間約4万人が腸チフスに罹患した。責任感の強い黒沢は、体調がすぐれないことを三原脩監督に隠し、試合に出続けた。結果的にそれが命取りになったという。葬儀は球団葬として執り行われた。球団はチームを支えた黒沢をたたえ、背番号4について、戦死した伝説の名投手、沢村栄治の14と共に永久欠番にすることを発表した。
プロ野球史上、背番号4が永久欠番になっているのは12球団中、巨人だけである。日本では縁起のよくない番号で、歴史的にこの番号を背負った選手が少なかった。
■漫画で復活した背番号「4」
「栄光の巨人軍」の歴史にあって、黒沢の名はしばらく忘れられていたが、1970年代にその名が再びクローズアップされたことがあった。『侍ジャイアンツ』(川崎のぼる作、講談社漫画文庫)という野球漫画の中で、主人公が背番号4を希望し、球団に受け入れられるという設定になっている。
主人公の名は、番場蛮(ばんば・ばん)といった。漁師の父を持ち、土佐の荒波を子守歌に育った。「ハイジャンプ魔球」「大回転魔球」「分身魔球」…数々の魔球で並みいる打者を翻弄した。劇画でしか考えられない無頼派の左腕だったが、巨人の紳士的な野球に不安を感じていた名将・川上監督は「体質改善」を訴え、「紳士のジャイアンツに侍の血を導入しないと、勝利の歓喜の中からひっそりと敗北の芽がめばえ始める」と憂えた。
■「死」の覚悟で欠番を希望
高校時代、無名の存在だった番場は晴れて巨人への入団が決まると、永久欠番の4をあえて希望した。その理由は第1巻「巨人の腹やぶり!」の巻で説明が加えられている。
江戸時代に書かれた「葉隠」(はがくれ)の「武士道とは死ぬ事と見つけたり」の精神を信じた番場。死を背負う武士道の心構えこそ、忌み嫌われる番号にこだわった理由だった。川上は担当記者を前に、現役中に亡くなった黒沢の無念の死に言及。あえて永久欠番を欲した四国の若き野生児にスケールの大きな野球を期待したのである。
■背番号の重みをかみしめる
当時、劇画の中で巨人軍はヒーローとして描かれ、多くの野球少年の憧れだった。「スポ根」野球漫画は80年代に入ると衰退の一途をたどり、巨人の選手が主人公の漫画は姿を消し“風前の灯火”のような状況になった。戦中・戦後の巨人で黒沢が輝きを放ったのはわずか2シーズンに過ぎないが、巨人でわずか6選手(ほかに川上16、金田正一34、長嶋茂雄3、王貞治1)しかいない「勲章」を手にしたのである。
野球賭博で無期失格処分などを受けた巨人の選手たちは、それぞれが付けていた背番号にも深い傷をつけたことになる。プロ野球という夢をかなえ、ユニホームに袖を通したすべての選手は背番号の重みについて、改めて認識すべきだろう。
my message
ジャイアンツの背番号[4]にはそういう経緯が有ったんですね、わかりませんでした。
黒沢俊夫という選手も詳しく知りませんでしたがこの記事を拝見させてもらい、ようやく黒沢俊夫という選手を知る事が出来ました。
by blog described person
■伝説の沢村栄治とともに
戦争の影が色濃く残る中、黒沢が思い半ばで息を引き取った経緯は、ノンフィクション作家、小野俊哉の『プロ野球は「背番号」で見よ!』(平凡社新書)に詳しい。
終戦直後の劣悪な衛生環境によって、当時、年間約4万人が腸チフスに罹患した。責任感の強い黒沢は、体調がすぐれないことを三原脩監督に隠し、試合に出続けた。結果的にそれが命取りになったという。葬儀は球団葬として執り行われた。球団はチームを支えた黒沢をたたえ、背番号4について、戦死した伝説の名投手、沢村栄治の14と共に永久欠番にすることを発表した。
プロ野球史上、背番号4が永久欠番になっているのは12球団中、巨人だけである。日本では縁起のよくない番号で、歴史的にこの番号を背負った選手が少なかった。
■漫画で復活した背番号「4」
「栄光の巨人軍」の歴史にあって、黒沢の名はしばらく忘れられていたが、1970年代にその名が再びクローズアップされたことがあった。『侍ジャイアンツ』(川崎のぼる作、講談社漫画文庫)という野球漫画の中で、主人公が背番号4を希望し、球団に受け入れられるという設定になっている。
主人公の名は、番場蛮(ばんば・ばん)といった。漁師の父を持ち、土佐の荒波を子守歌に育った。「ハイジャンプ魔球」「大回転魔球」「分身魔球」…数々の魔球で並みいる打者を翻弄した。劇画でしか考えられない無頼派の左腕だったが、巨人の紳士的な野球に不安を感じていた名将・川上監督は「体質改善」を訴え、「紳士のジャイアンツに侍の血を導入しないと、勝利の歓喜の中からひっそりと敗北の芽がめばえ始める」と憂えた。
■「死」の覚悟で欠番を希望
高校時代、無名の存在だった番場は晴れて巨人への入団が決まると、永久欠番の4をあえて希望した。その理由は第1巻「巨人の腹やぶり!」の巻で説明が加えられている。
江戸時代に書かれた「葉隠」(はがくれ)の「武士道とは死ぬ事と見つけたり」の精神を信じた番場。死を背負う武士道の心構えこそ、忌み嫌われる番号にこだわった理由だった。川上は担当記者を前に、現役中に亡くなった黒沢の無念の死に言及。あえて永久欠番を欲した四国の若き野生児にスケールの大きな野球を期待したのである。
■背番号の重みをかみしめる
当時、劇画の中で巨人軍はヒーローとして描かれ、多くの野球少年の憧れだった。「スポ根」野球漫画は80年代に入ると衰退の一途をたどり、巨人の選手が主人公の漫画は姿を消し“風前の灯火”のような状況になった。戦中・戦後の巨人で黒沢が輝きを放ったのはわずか2シーズンに過ぎないが、巨人でわずか6選手(ほかに川上16、金田正一34、長嶋茂雄3、王貞治1)しかいない「勲章」を手にしたのである。
野球賭博で無期失格処分などを受けた巨人の選手たちは、それぞれが付けていた背番号にも深い傷をつけたことになる。プロ野球という夢をかなえ、ユニホームに袖を通したすべての選手は背番号の重みについて、改めて認識すべきだろう。
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ジャイアンツの背番号[4]にはそういう経緯が有ったんですね、わかりませんでした。
黒沢俊夫という選手も詳しく知りませんでしたがこの記事を拝見させてもらい、ようやく黒沢俊夫という選手を知る事が出来ました。
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