マイクアピールするラッシャー木村(2003年、プロレスリング・ノア)
国語辞典のようなサイズの「実録・国際プロレス」
1981年に崩壊した国際プロレス(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ)のリアルな姿を詳細に掘り起こした「実録・国際プロレス」(辰巳出版、2400円+税)が出版された。同社のプロレス専門誌「Gスピリッツ」で長期連載されていた同名企画をまとめたもので、何と624ページにおよぶ国語辞典のような分厚い一冊。
同誌の佐々木賢之編集長(46)が「これは気合いを入れて作りました」と言うので、読んでみた。連載はインタビュー形式で1人1回ではなく、数回にわたっている。登場人物は、ストロング小林、マイティ井上、寺西勇、デビル紫、アニマル浜口、鶴見五郎、大井山勝三、稲妻二郎、米村天心、将軍KYワカマツ、高杉正彦、マッハ隼人ら23人(継承略)。その後、亡くなった人もいるが、連載当時の生き証人による検証だけに、連載開始時に、すでに亡くなっていた吉原功社長や最後のエースで“金網デスマッチの鬼”ラッシャー木村が登場していないのが残念。
624ページすべてを読破した訳ではないが、ほとんどのインタビューに吉原社長とラッシャー(または本名の木村政雄)が出てくるので、その部分だけをかいつまんで読めば、それぞれの評伝になるかもしれない。何しろ、624ページなわけだから、いろんな読み方をしないと、続かないだろう。1ページから624ページまで順番に読むには、かなりの覚悟が必要だ。
国際プロレスは、1966年10月24日に吉原氏とヒロ・マツダによって設立された。力道山亡き日本プロレスに対抗してできた団体で、70年10月8日にはラッシャー木村が大阪で日本初の金網デスマッチを敢行(ドクター・デスをKO)。72年に新日本プロレス、全日本プロレスができてからは、第3団体に沈み、81年8月9日の北海道・羅臼大会で興行活動を停止した。
TBSや東京12チャンネル(現テレビ東京)でゴールデンタイムに中継されていたが、血だるまやデスマッチは、視聴者から敬遠され、81年3月で打ち切られた。お茶の間に国際の名を売ったのは、新日本プロレス(テレビ朝日)でのはぐれ国際軍団、全日本プロレス(日本テレビ)での国際血盟軍だった。
その両軍で大将を務めたのがラッシャー木村だった。その“デビュー”が、いわゆる“こんばんは事件”だ。81年9月23日、田園コロシアム。アントニオ猪木VSタイガー戸口のメインイベントの前にラッシャー木村とアニマル浜口が登場し、10月8日の猪木VS木村に向けて、一大アジテーションを繰り広げるはずだった。
マイクを握った木村は「こんばんは」とあいさつし、会場から失笑がもれた。「10月8日の試合は、私たちは国際プロレスの名誉にかけても、必ず勝ってみせます」と続けたが、微妙な空気に浜口がすぐにマイクを奪って「10月8日は絶対、我々が勝ちますよ。おい、待っとけよ!」と吠えた。これをテレビで見た少年時代の私は「勝たせてあげたい」と思ったものだ(結果は木村の反則勝ち)。
純粋だった少年とは違い、このシーンは、ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とギャグにしたほどの珍場面だった。「実録・国際プロレス」では、アニマル浜口と寺西勇が当時を振り返っている。一部を紹介すると、秩父で合宿していた寺西は「帰ってきたら、浜口が怒っていてね。“木村さんがよりによって、『こんばんは』なんて言いやがってー”と」と苦笑。浜口は今になって「あれは礼儀正しい挨拶。普通のことなんですよ」と話している。
その後の猪木との抗争は前代未聞の3対1決戦など、高視聴率を稼いだ。浜口は「変に機転を利かすことなく、ラッシャー木村のままだから良かったんです。器用な選手だったら、猪木さんがジェラシーを起こしちゃうでしょ」と見事に分析している。木村の人間っぷりは、国際血盟軍を経たジャイアント馬場との“義兄弟コンビ”でいかんなく発揮された。あの「こんばんは」という第一声がなければ、国際プロレスの名前は風化していたかもしれない。(酒井 隆之)
国語辞典のようなサイズの「実録・国際プロレス」
1981年に崩壊した国際プロレス(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ)のリアルな姿を詳細に掘り起こした「実録・国際プロレス」(辰巳出版、2400円+税)が出版された。同社のプロレス専門誌「Gスピリッツ」で長期連載されていた同名企画をまとめたもので、何と624ページにおよぶ国語辞典のような分厚い一冊。
同誌の佐々木賢之編集長(46)が「これは気合いを入れて作りました」と言うので、読んでみた。連載はインタビュー形式で1人1回ではなく、数回にわたっている。登場人物は、ストロング小林、マイティ井上、寺西勇、デビル紫、アニマル浜口、鶴見五郎、大井山勝三、稲妻二郎、米村天心、将軍KYワカマツ、高杉正彦、マッハ隼人ら23人(継承略)。その後、亡くなった人もいるが、連載当時の生き証人による検証だけに、連載開始時に、すでに亡くなっていた吉原功社長や最後のエースで“金網デスマッチの鬼”ラッシャー木村が登場していないのが残念。
624ページすべてを読破した訳ではないが、ほとんどのインタビューに吉原社長とラッシャー(または本名の木村政雄)が出てくるので、その部分だけをかいつまんで読めば、それぞれの評伝になるかもしれない。何しろ、624ページなわけだから、いろんな読み方をしないと、続かないだろう。1ページから624ページまで順番に読むには、かなりの覚悟が必要だ。
国際プロレスは、1966年10月24日に吉原氏とヒロ・マツダによって設立された。力道山亡き日本プロレスに対抗してできた団体で、70年10月8日にはラッシャー木村が大阪で日本初の金網デスマッチを敢行(ドクター・デスをKO)。72年に新日本プロレス、全日本プロレスができてからは、第3団体に沈み、81年8月9日の北海道・羅臼大会で興行活動を停止した。
TBSや東京12チャンネル(現テレビ東京)でゴールデンタイムに中継されていたが、血だるまやデスマッチは、視聴者から敬遠され、81年3月で打ち切られた。お茶の間に国際の名を売ったのは、新日本プロレス(テレビ朝日)でのはぐれ国際軍団、全日本プロレス(日本テレビ)での国際血盟軍だった。
その両軍で大将を務めたのがラッシャー木村だった。その“デビュー”が、いわゆる“こんばんは事件”だ。81年9月23日、田園コロシアム。アントニオ猪木VSタイガー戸口のメインイベントの前にラッシャー木村とアニマル浜口が登場し、10月8日の猪木VS木村に向けて、一大アジテーションを繰り広げるはずだった。
マイクを握った木村は「こんばんは」とあいさつし、会場から失笑がもれた。「10月8日の試合は、私たちは国際プロレスの名誉にかけても、必ず勝ってみせます」と続けたが、微妙な空気に浜口がすぐにマイクを奪って「10月8日は絶対、我々が勝ちますよ。おい、待っとけよ!」と吠えた。これをテレビで見た少年時代の私は「勝たせてあげたい」と思ったものだ(結果は木村の反則勝ち)。
純粋だった少年とは違い、このシーンは、ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とギャグにしたほどの珍場面だった。「実録・国際プロレス」では、アニマル浜口と寺西勇が当時を振り返っている。一部を紹介すると、秩父で合宿していた寺西は「帰ってきたら、浜口が怒っていてね。“木村さんがよりによって、『こんばんは』なんて言いやがってー”と」と苦笑。浜口は今になって「あれは礼儀正しい挨拶。普通のことなんですよ」と話している。
その後の猪木との抗争は前代未聞の3対1決戦など、高視聴率を稼いだ。浜口は「変に機転を利かすことなく、ラッシャー木村のままだから良かったんです。器用な選手だったら、猪木さんがジェラシーを起こしちゃうでしょ」と見事に分析している。木村の人間っぷりは、国際血盟軍を経たジャイアント馬場との“義兄弟コンビ”でいかんなく発揮された。あの「こんばんは」という第一声がなければ、国際プロレスの名前は風化していたかもしれない。(酒井 隆之)