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7月1日は王さんの一本足打法が生まれた日…“1号”を打たれた元大洋・稲川誠さんの矜恃

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↑大好きな蝶(ちょう)の標本を手にする元大洋・稲川誠さん

↑現役時代の稲川誠さん(左、右は王貞治さん)

 7月1日は日本のプロ野球史上に残る大きなターニングポイントとなった日である。通算868本塁打を記録した王貞治さん(77)=ソフトバンク会長=が一本足打法をスタートした日だ。1962年7月1日、川崎球場で行われた大洋(現DeNA)・巨人戦で初披露し、本塁打を放った。あれから55年、“一本足第1号”を打たれた稲川誠さん(80)に当時を聞いた。

 ダブルヘッダーの初戦、1番打者として登場した王さんと対峙(たいじ)した稲川さんは、目を疑った。投げようとすると、18・44メートル先の打席では王さんが右足を大きく上げて静止していた。「当時も軽く足を上げて打つバッターはいっぱいいた。でもグッと太ももまで上げて…。初めて見ました。格好がすごく奇妙に思えたんです」。2ストライクと追い込んでからの3球目をライト前に運ばれた。

 王さんは、この試合まで打撃不振だった。6月7日の大洋戦(後楽園)で9号を放って以来、本塁打なし。その間の打率は1割台に低迷していた。あまりの不振に、試合前のコーチミーティングでつるし上げを食らった荒川博打撃コーチが王さんに一本足打法で打つことを指示していた。

 第2打席でも、稲川さんの考えは変わらなかった。「あんな変なフォームで打たれるわけはない。コースを突くとかそんな考えは全然なかった。ストライクを放れば打たれないだろうと…」。3回1死走者なしで対戦。初球をライナーで右翼席へ運ばれた。

 王さんの通算47号、その後、一本足で821本を積み重ねた“世界の王”の原点でもある。後に王さんは「あの日、結果が出なかったら、また元に戻そうと思っていた」と述懐したという。稲川さんは「私があそこでカポンって打たれたのが、彼の運命を変えた一発になったんですね」と苦笑いした。

 王さんの一本足デビューは、当時は大きな話題にならなかった。翌日の報知新聞には打撃フォームに関する記述は一切無し。その後、ホームランを量産することでじわじわと注目を集めたようだ。打撃フォームの写真が紹介されたのは20日付の一面で「独特のフォームで大当たり」の記述。21日付では「毛やりをささげ持ったやっこさんのようなかっこう」の表記になり、22日付紙面で新打法の詳報が掲載された。

 稲川さんも、この試合までは王さんと3打席対戦、無安打1四球と寄せ付けなかったが、その後は7年間で11本塁打を浴び、通算打率も3割2分1厘と打ち込まれた。

 「最初は(一本足も)ぎこちなかったよ。でもだんだんと様になってきて、軸足で地球をつかんでいるように立って、ピタッと止まって。ヒット打たれて(本塁打でなくて)ホッとしたのは王だけだよ」。

 稲川さんはプロ入り前に王さんの打者としての素質も見抜いていた。立大4年の時に、東長崎の立大球場で行われた高校野球の試合で早実3年の王さんを目撃している。「レフトの後方に寮があって、寮の2階から見ていた。ピッチングはたいしたことないなと思ったけど、バッティングはすごかった。体も大きいししっかりとした構えだった」前年にセンバツ大会優勝投手として投打に注目を集めていた王さんだが、稲川さんは投手より打者としての素質を何より感じていた。

 実働7年の稲川さんの現役生活は、太く短く、まばゆい輝きを放っていた。立大の2年先輩の杉浦忠さんのアドバイスを受け「粘り強い投球をするために、軸足でボールを長く持って、ひじで送り込んで手首を使う」。身長の割には長い手を生かしスリークオーターから真っすぐ、カーブ、シュートを投げ込んだ。大洋の初優勝(60年)の2年後に入団。ルーキーイヤーの62年は12勝7敗で防御率1・98。新人王こそ24勝を挙げた巨人・城之内に譲ったものの、規定投球回数に到達しての防御率1点台の新人投手は、2リーグ制後から現在までわずか7人しか達成していない。また、翌63年にマークした26勝(17敗)は今も球団のシーズン記録として残るが、最多勝は国鉄(現ヤクルト・金田正一(30勝)に譲った。

 64年もエース秋山登と並ぶ21勝を挙げ活躍したが、優勝へはあと一歩届かなかった。優勝までマジック1として2位・阪神との直接対決のとなる最後のダブルヘッダーの第1戦(甲子園)で先発、5回途中、3失点で降板し負け投手となると、2戦目は同点の8回2死満塁でリリーフ登板。2球目が暴投になり決勝点を許した。阪神が残り3試合を全勝し、60年以来、4年ぶりの優勝を逃した。「カーブがショートバウンドして…。(捕手の)伊藤が固くなっていたのもあったけれど…」。奇跡的にバックネットで大きく跳ね返り、ホームにベースカバーに入り送球を受けたが、稲川さんのタッチよりも三塁走者・本屋敷錦吾の足がホームを踏む方が一瞬速かった。優勝を逃した“魔の1球”は、今でも鮮明に思い出すという。

 その後は、大洋から横浜、DeNAとチーム名は変わっても、チーム一筋で投手コーチ、スカウト、寮長などを歴任した。98年に38年ぶりの日本一に輝いた時は、川村丈夫ら自らが獲得した選手の活躍を感慨深くみつめた。「あのとき(64年)に勝っていたら歴史は変わっていた。それにしても、ここまで優勝できないとは思わなかった」。

 それでも悲運の投手と言われることを、稲川さんは潔しとしない。「王、長嶋さんの全盛期のころに対戦できて幸せですよ。巨人だったらもっと勝てたかもしれないけれど、味方だったら王、長嶋さんとは対戦できないんですから」。

 最後に再び、一本足打法第1号について聞いた。王さんは「ホームランはインローの直球、うまくバットが出た」とのコメントを残しているが、稲川さんは首を振った。「ど真ん中。今から思えば、ボールに気持ちが入ってなかったなぁ」。ほんの少しの後悔と自らの投球への自信。そのコメントにピッチャーとしての矜持(きょうじ)が垣間見えた。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆稲川 誠(いながわ・まこと)1936年7月25日、旧・満州国(中国東北地方)の新京(現・長春)で生まれ、80歳。小学3年までは北京で暮らす。終戦とともに天津の収容所で過ごし、帰国。福岡・修猷館高校を経て、立大に進学。卒業後は富士鉄室蘭に進み、62年に大洋に入団。63年から3年連続開幕投手を務め、63年には球団記録の26勝をマーク。実働7年で83勝70敗、防御率2・78。引退後は投手コーチやスカウトを歴任。2年間のブランクの後、05年から寮長を務め、2012年で退団。現役当時の身長は170センチ、体重67キロ。右投右打。趣味は蝶(ちょう)の収集、飼育で日本国内で生息する蝶はほぼ全種類収集している。投手コーチ時代に石垣島で収集したトンボが日本で初記録となる「ナンヨウベッコウトンボ」であることが判明し話題を呼んだ。


?オ?レ?コ?メ?
なるほど、王貞治の一本足打法でのホームランはこの選手が先発したときに打たれたんですね?

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