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DeNA・須田幸太、防御率108・00からの逆襲に刮目せよ

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↑4月2日のヤクルト戦、延長10回1死、代打・鵜久森に左越えにサヨナラ満塁本塁打を打たれた須田

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↑土浦湖北時代の須田が、センバツ1回戦の済美戦で鵜久森に一発を浴び敗退した、04年3月27日のスポーツ報知

 「防御率108・00」である。残酷すぎる数字に一瞬、目を背けそうになった。だが、それは須田幸太に失礼だ。ここからはい上がる姿をしっかりと見ていこうじゃないか。そう、13年前と同じように―。

 4月2日、神宮でのヤクルト-DeNA3回戦で「事件」は起きた。4-4の同点で迎えた延長10回裏1死満塁。6番手でリリーフした須田の初球ストレートを、代打・鵜久森淳志がフルスイングした。打球はでっかい弧を描き、左翼席に弾んだ。ヤクルトでは35年ぶりの代打満塁サヨナラアーチ。プロ13年目の苦労人が放った劇弾に、ツバメ党は酔いしれた。

 「着弾点は、あの日と同じレフトスタンドか…」

 歓喜に沸くヤクルトナインを会社のテレビで見ながら、私は思った。2004年3月26日、センバツ1回戦の土浦湖北・済美戦で両者は対戦。須田は鵜久森に被弾している。鵜久森は初回に先制二塁打を放つと、4回には左翼越えに2ラン。5打数3安打3打点と打線を牽引し、須田を粉砕した。済美は9―0の圧勝だった。

 須田は前年秋の関東大会で優勝投手に輝き、この年のセンバツにおける注目選手の一人。ところが大阪入り後、右ひじに激痛が走り、試合前夜には痛み止めの注射を打ってのマウンドを余儀なくされた。3回からは腰痛も併発し、フォームが崩れ、球威が落ちたところを狙い打ちされた。8回まで173球、10Kと意地を見せたが、全国の壁にはね返された。

 私は須田が好きだった。まだ野球記者になって2年目。原稿は下手クソだったが、熱意だけはあった。その年の1月、土浦湖北のグラウンドへと取材に行った。私も茨城出身。須田の出身地である石岡市には父の勤務する会社があったことから、勝手に親近感を抱いていた。そんな話をすると「加藤さんは茨城出身なのに、全然訛っていないんですね」と笑われた。上京して11年も経っているからね。君もいつかそうなるよ。

 負けん気が強く、頭の回転が速くて、インタビューは楽しかった。アマ野球担当として過去、大勢の甲子園球児と話をしてきたが、これほどトークがキレキレだったのは、須田と帝京・杉谷拳士が双璧である。

 須田を応援していた分、悲痛な表情で試合を振り返る姿を見て、私はつらくなった。思い入れがあり、長い原稿を書かせて欲しいとキャップに訴えようと思ったが、希望は叶わなかった。直後の試合で東北・ダルビッシュ有が熊本工を相手にノーヒットノーランを成し遂げたため、紙面は快挙に占拠されてしまったからだ。

 須田は最後の夏も腰痛との戦いだった。茨城大会では2戦目の常磐大高戦に1―2で破れ、甲子園に帰還する夢は果たせなかった。だが、切れ味鋭いボールには早大が注目していた。入学後は先発として活躍。東京六大学リーグで通算8勝を挙げた。卒業後は社会人のJFE東日本で研鑽を積んだ。プロ7年目。昨季まで通算133試合に登板してきた。甲子園で鵜久森らにメッタ打ちを食らった悔しさが、その後の野球人生の原動力になったことは、想像に難くない。

 話を2017年に戻す。須田は3月31日の開幕戦・ヤクルト戦(神宮)でも2番手救援し、1死しか取れずに3失点しており、3連戦を終えて防御率は「108・00」になってしまった。でもね、ここからの須田は、地味にすごいんだ。

 4月7日の中日戦(ナゴヤD)こそ2失点して今季初黒星を喫したが、以降8試合にリリーフして、計5回を無失点に封じている。ヒットは1本も打たれていない。ボールの縫い目の数、煩悩の数にまで一度は膨らんだ防御率は7・04にまで落ち着いた。リードしていても須田。同点でも須田。負けていても須田。そんな中、5ホールドをマークし、しっかりとDeNAのブルペンを支えている。

 屈辱を屈辱のままで終わらせない。この闘争心の強さこそ、私が13年前から須田幸太に惹かれる理由である。さっそく16日に両者はハマスタで再戦し、須田はセカンドフライに抑えている。今シーズン、鵜久森と対戦する機会は、これから何度もあるはずだ。闘志全開でリベンジマッチへと挑む背番号20を、これからも楽しみにしている。やられたら、やり返せ。

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