↑22日、三重県伊勢市の倉田山球場で巨人―日本ハムのオープン戦が開催される。巨人草創期のエース、沢村栄治の生誕100周年を記念して、巨人全ナインが沢村のつけていた背番号14のユニホームを着用。その使用済みユニホームは同市内の小中学校に寄贈されることになっている。2月1日に市内明倫商店街に沢村氏の有名な言葉を彫り込んだ“全力石”の除幕式が行われたが、それだけではなく当地には沢村関連の遺物が数多くあって“沢村巡礼”にはもってこいの場所だ。
近鉄鳥羽線・宇治山田駅前の明倫商店街。「沢村栄治生誕の街」の看板が掲げられているアーケードに入っていくと約100メートル先に2月1日に除幕式が行われた「全力石」がある。それは明倫小学校出身の当地を代表するスーパースター、巨人草創期のエース、故・沢村栄治投手(1944年没=享年27)の生誕100周年を記念して設置されたものだ。
家庭の事情で京都商に進学したが、そんな英雄を「NPO法人 沢村栄治顕彰会」が「野球少年たちに石碑に触れてもらい、沢村投手を目標に頑張ってもらいたい」と建立。石碑には沢村が残した名言「人に負けるな どんな仕事をしても勝て しかし堂~(堂々)とだ」と彫り込まれている。
式典に出席した81年の沢村賞投手で巨人の後輩、野球評論家の西本聖さん(60)は「(受賞した直後の)日本シリーズでは、この賞の名に恥じないようなピッチングという誇りを持って臨んだ結果、2勝してシリーズでMVPになれた。沢村賞のプライドと誇りを持って20年間のプロ野球生活を全うできました。沢村賞への感謝でいっぱいです」。そして「誇れるものがあり、地元の人は幸せだと感じる」とも話した。
その商店街を抜けて駐車場の片隅には2011年に建てられた「沢村栄治生家跡」の石碑と生家の写真、沢村の紹介文などが設置されている。紹介文には、こうある。
沢村賞制定のもとになった大投手でプロ野球の投手が憧憬する沢村栄治「大正六年(一九一七)二月一日 父賢二、母みち江の長男としてこの地で生まれ育つ」昭和十九年十二月二日 二七歳の若さで、台湾沖にて戦死を遂げる。
彼の偉業をたたえ、この碑を建立する。
沢村栄治顕彰会
その写真を見ると、往時の沢村家の様子をうかがい知ることができる。
そこから1キロほど徒歩で10分ほど勢田川を渡った伊勢市岩渕町の一角、一挙坊墓地にお墓がある。
ここは通常のお寺が守るお墓ではなく、どちらかというと地域の共同墓地のような場所で、沢村の墓はほぼ中央にあり、大きなボールが目印になっている。写真のような大きな硬球をかたどったものを乗せた墓石で、ボールの表がジャイアンツのG、裏が永久欠番の14が彫られている。西本氏も「全力石」除幕式の後、お参りされた。
それだけではない。オープン戦開催の倉田山球場には73年3月20日に建立した胸像が、2年後に完成した同じ宇治山田出身の元タイガース投手・西村幸生の胸像とともに並んでいる。お墓以外に沢村をしのぶものがなかった時代、当時の三重県野球教室の山本馨会長が中心になって「地元の生んだ大投手の業績を知ってもらい、青少年のスポーツ振興に役立ててほしい」との思いで建てられた。オープン戦の試合前に拝む人も少なくないはずだ。
伊勢神宮参拝や鳥羽などに旅した際に、ぜひ寄ってみたい沢村スポットが数多くある。ジャイアンツ・ファンだけでなく野球ファンなら、沢村の往時の豪快なピッチングに思いをはせながら、訪ね歩くことをぜひお勧めします。
※20日から26日まで伊勢市観光文化会館で記念展示会を行うなど各種の「沢村栄治生誕100周年」を祝うイベントを用意している。(詳細は伊勢市教育委員会 文化振興課 TEL0596・22・7885まで)
また、沢村栄治顕彰会では沢村投手のブロンズ像建立のための募金を呼びかけている。募金期間は今年6月30日まで。問い合わせ先はTEL0596・28・1322 同顕彰会まで。
◆沢村 栄治 1917年2月1日、宇治山田市(現伊勢市)出身。地元の明倫小から京都商に進み快速球に磨きがかかり、34年に開催された日米野球では全日本軍の一員となり、ベーブ・ルースらの全米軍相手に力投。そのまま巨人入り、プロ野球発足2年目の37年春季リーグで24勝して最初のMVP。また、通算3度のノーヒットノーランも達成したが、3度の応召の結果、肩を壊し通算63勝22敗、44年12月2日に台湾沖で戦死。その功績がたたえられ、47年に最も素晴らしい成績を残した先発投手に贈られる「沢村栄治賞」が制定。また、同年に背番号14が巨人の永久欠番に。また、野球殿堂の第1回受賞者となっている。
近鉄鳥羽線・宇治山田駅前の明倫商店街。「沢村栄治生誕の街」の看板が掲げられているアーケードに入っていくと約100メートル先に2月1日に除幕式が行われた「全力石」がある。それは明倫小学校出身の当地を代表するスーパースター、巨人草創期のエース、故・沢村栄治投手(1944年没=享年27)の生誕100周年を記念して設置されたものだ。
家庭の事情で京都商に進学したが、そんな英雄を「NPO法人 沢村栄治顕彰会」が「野球少年たちに石碑に触れてもらい、沢村投手を目標に頑張ってもらいたい」と建立。石碑には沢村が残した名言「人に負けるな どんな仕事をしても勝て しかし堂~(堂々)とだ」と彫り込まれている。
式典に出席した81年の沢村賞投手で巨人の後輩、野球評論家の西本聖さん(60)は「(受賞した直後の)日本シリーズでは、この賞の名に恥じないようなピッチングという誇りを持って臨んだ結果、2勝してシリーズでMVPになれた。沢村賞のプライドと誇りを持って20年間のプロ野球生活を全うできました。沢村賞への感謝でいっぱいです」。そして「誇れるものがあり、地元の人は幸せだと感じる」とも話した。
その商店街を抜けて駐車場の片隅には2011年に建てられた「沢村栄治生家跡」の石碑と生家の写真、沢村の紹介文などが設置されている。紹介文には、こうある。
沢村賞制定のもとになった大投手でプロ野球の投手が憧憬する沢村栄治「大正六年(一九一七)二月一日 父賢二、母みち江の長男としてこの地で生まれ育つ」昭和十九年十二月二日 二七歳の若さで、台湾沖にて戦死を遂げる。
彼の偉業をたたえ、この碑を建立する。
沢村栄治顕彰会
その写真を見ると、往時の沢村家の様子をうかがい知ることができる。
そこから1キロほど徒歩で10分ほど勢田川を渡った伊勢市岩渕町の一角、一挙坊墓地にお墓がある。
ここは通常のお寺が守るお墓ではなく、どちらかというと地域の共同墓地のような場所で、沢村の墓はほぼ中央にあり、大きなボールが目印になっている。写真のような大きな硬球をかたどったものを乗せた墓石で、ボールの表がジャイアンツのG、裏が永久欠番の14が彫られている。西本氏も「全力石」除幕式の後、お参りされた。
それだけではない。オープン戦開催の倉田山球場には73年3月20日に建立した胸像が、2年後に完成した同じ宇治山田出身の元タイガース投手・西村幸生の胸像とともに並んでいる。お墓以外に沢村をしのぶものがなかった時代、当時の三重県野球教室の山本馨会長が中心になって「地元の生んだ大投手の業績を知ってもらい、青少年のスポーツ振興に役立ててほしい」との思いで建てられた。オープン戦の試合前に拝む人も少なくないはずだ。
伊勢神宮参拝や鳥羽などに旅した際に、ぜひ寄ってみたい沢村スポットが数多くある。ジャイアンツ・ファンだけでなく野球ファンなら、沢村の往時の豪快なピッチングに思いをはせながら、訪ね歩くことをぜひお勧めします。
※20日から26日まで伊勢市観光文化会館で記念展示会を行うなど各種の「沢村栄治生誕100周年」を祝うイベントを用意している。(詳細は伊勢市教育委員会 文化振興課 TEL0596・22・7885まで)
また、沢村栄治顕彰会では沢村投手のブロンズ像建立のための募金を呼びかけている。募金期間は今年6月30日まで。問い合わせ先はTEL0596・28・1322 同顕彰会まで。
◆沢村 栄治 1917年2月1日、宇治山田市(現伊勢市)出身。地元の明倫小から京都商に進み快速球に磨きがかかり、34年に開催された日米野球では全日本軍の一員となり、ベーブ・ルースらの全米軍相手に力投。そのまま巨人入り、プロ野球発足2年目の37年春季リーグで24勝して最初のMVP。また、通算3度のノーヒットノーランも達成したが、3度の応召の結果、肩を壊し通算63勝22敗、44年12月2日に台湾沖で戦死。その功績がたたえられ、47年に最も素晴らしい成績を残した先発投手に贈られる「沢村栄治賞」が制定。また、同年に背番号14が巨人の永久欠番に。また、野球殿堂の第1回受賞者となっている。